ヴィジュアル系と歪んだ身体感覚

肉体派ではないヴィジュアル系

非モテの問題とは、つまり、身体感の無さである。


(umeten「すべての男は非モテである−男性学的なるもの」『奇刊クリルタイ』p11より)

(引用者注:楠本まきの漫画に自分を投影する人の話の続き。Y=やなぎ K=今野 M=楠本)


Y:だけど今野さんって、一般に日本の男性のオタクじゃないですよね。

K:まあちょっと違うかもしれない。類型にはならないかも・・・・・でも同じでしょ。

Y:岡田斗司夫さんとか、オタク初世代の人とは反対のタイプかもしれない。
彼らは絶対に、登場人物を自分に投影しようとはしないですよ。

M:まあ投影出来ないし(笑)。

Y:別にダイエットしろとは言いませんが、私の周りのオタク男性も
自分の肉体なんて最も興味がない」ってあっさり言うんですよね。
家に鏡がないとか。でもその身体感覚はちょっと興味ある。
でも安部公房の『箱男』みたいな、本当に、見るだけの純粋な存在なのかなあ。


やなぎみわ×楠本まき「無限に時間をもつという耽美」『yaso夜想/特集#耽美』p169より)

V系=暴れる、喧嘩する、破壊する」が通り相場なんだけれども、肉体感には著しく欠けてる
なんか痩せこけた奴が上半身裸になって「おらー!」とか凄んでも、
「おいおい、この貧弱さは何だぁ?」と(笑)。実は喧嘩弱いんだけど気合で勝つ、みたいなさ。


市川哲史『私も「ヴィジュアル系」だった頃。』p134より)


非モテ、類型的な初世代(第一世代?)のオタク、ヴィジュアル系(以下はV系と書くことにする)
各々の「身体感の希薄さ」を示唆する文章を引用してみた。


だが、以上3つの中で「V系は違うんじゃねえ?」という感想を持つ人が多いと思う。
非モテとオタクなら何とか類似項は見出せそうだが、そこにV系を入れるのは違和感があるかもしれない。


自称「文科系オタク型」の大槻ケンヂは、以下のように語っている。

80年代ニューウェイブ、いや80年代ポジティブ・パンクの人たちはやっぱり
お耽美なノリだったわけですよ−ちょっと身体の弱いような−(笑)。
そこにXがやって来て、「気合いだぁーっ!」って叫びながら(苦笑)。
そうしたらジャスコしか街にないような地方の、「本来はヤンキーをやるべきなんじゃないか」
というような女の子たちが、わんさかV系の下に来るようになってね。耽美色を、一切消しちゃったんだよね。


市川哲史『私が「ヴィジュアル系」だった頃。』p34より)


大槻ケンヂの語りが正しいとするなら、 X(エックス)X-JAPAN) 以降で括られるV系の人は
非モテでも、オタクでもなく、その対極のヤンキーでありDQNに近い集団なのかもしれない。

モテ側だけど、ズレタ美学を持つヴィジュアル系

等しく非モテであるはずの男をモテと非モテとに分かつもの。
それが、一般に精神論や根性論と呼ばれる「らしさ」の喪失が生んだ新たな「信仰」−身体感信仰である。
その本質は、「らしさ」の喪失という脱神話化作用によって、メタレベルに退却を余儀なくされた筋肉である。


(umeten「すべての男は非モテである−男性学的なるもの」『奇刊クリルタイ』p10より)


V系の人は化粧してバンドやって、女の子にキャーキャー言われてるんだから
大別したら身体感信仰を持った「モテ」側の人間なのかもしれない。


しかし、V系は一般的なモテの人間よりも、過剰なまでの「メタレベルの筋肉」を志向したために
普通のモテの人間とは異なる「歪んだ身体感信仰」を持っているのではなかろうか?


そのようなV系の歪んだ身体感信仰によるパフォーマンスは井上貴子の言葉を借りれば
女性性のシンボルの流用による男性性の展開」と捉えられる。

<男の美学>で許されてきた身体的表象は、スポーツなどで鍛え上げたいわゆる
「原初的」でマッチョな肉体の誇示ぐらいのものであった。
しかも、それは、肉体的パワーの優れた機能をともなうものでなければならなかった。


しかし、<拡張された男の美学>(引用者注:V系ロックミュージシャンの美学)は
既存の「男らしい」身体的表象のかわりに、正反対のジェンダーの領域にあるとされてきた身体的表象を用いたのである。


井上貴子「拡張された<男の美学>−Xをめぐって『ヴィジュアル系の時代−ロック・化粧・ジェンダー』pp.122-123より)


V系の人は<男>としてのアピール方法が、一般的な方法と異なる「歪んだDQN」「ひねくれたDQNなのかもしれない。

「ヤンキーちゃんとロリータちゃん」

上記部分で「歪んだ身体感信仰」という訳の解らないキーワードを仮に作ってしまったが
もしかしたら、ゴスロリさんやロリータさんもこのカテゴリーに含まれるのかなぁという気がしてしまう。
過剰なまでのメタレベルな女性性とでも言い表せる、あの独特のセンスとか。


だから、嶽本野ばらさんの『下妻物語』の副題「ヤンキーちゃんとロリータちゃん」って
ある種の価値観を的確に表現してるなぁと思う。

普通のDQNじゃ嫌なの

私は、完全にDQNとかヤンキーとかが苦手で、学校のクラスの「イケてる人たち(死語)」にバカにされてた類の人間ですが
はっきり言えるのは


「ただのDQNに興味はありません。
この中に宇宙人DQN、未来人DQN異世界DQN、超能力者DQNがいたら
あたしのところに来なさい。以上!」


やっぱり怖いから来ないで

参考文献

id:umeten様「すべての男は非モテである−男性学的なるもの」『奇刊クリルタイ*1
⇒追記:ネット上にアップされたものすべての男は非モテである - umeten's blog
やなぎみわ×楠本まき「無限に時間をもつという耽美」『yaso―特集+耽美 Yaso(夜想)
市川哲史×大槻ケンヂ大槻ケンヂと、<V系>って何だったのか考えてみた」『私が「ヴィジュアル系」だった頃。
市川哲史私も「ヴィジュアル系」だった頃。
井上貴子「拡張された<男の美学>−Xをめぐって」『ヴィジュアル系の時代―ロック・化粧・ジェンダー (青弓社ライブラリー)

追記1:観念的なイメージとしての肉体への志向

「過剰なメタレベルの筋肉の志向」=「観念的な非実体のイメージとしての肉体への志向」とも言える。


従って、V系の人はバンドという身体的な活動を行っているにも関わらず
何故か地に足の着いた肉体感は欠如しているように感じる時がある。


V系アーティストの中に「人間外のモンスター」(吸血鬼・サイボーグ・人形・天使・悪魔etc..)を好み
自らのバンドコンセプトにそのイコンを埋め込んでいるパターンが多いのは
「観念的なイメージとしての肉体への志向」の結果ではなかろうか

追記2:<普通の人>はどっちもキモイと思うのかい?

自己の身体感が希薄すぎると(非モテ?・オタク?)<普通の人>からキモイと思われる。
自己の身体感が過剰すぎても(V系?・ゴスロリ?)<普通の人>からキモイと思われる。

*1:そもそもこの文章を勝手に公開しちゃって良いのだろうか。もし駄目な場合は消しますので御一報下さい。ただ、この文章がないと全く意味のない日記になっちゃうけど