アイドルとゴスロリと――アニメ「しゅごキャラ!」見つつ書き殴った欠片達

Imamu2007-11-23



しゅごキャラ!(1) (講談社コミックスなかよし)

しゅごキャラ!(1) (講談社コミックスなかよし)

アニメ「しゅごキャラ!」を糧に生きております。
Buono!の曲が聴きたいのでエンディングまで見てしまいます。


主人公、日奈森あむのパンクチックな服がいつも気になります。
アニメ第一話によるとお母さんがゴシック系、ロリータ系のファッションが好きで、
自分の娘たちにその種の服(姉の日奈森あむはパンク系妹の日奈森あみにはロリータ系)
を着せているようです。
このお母さんにはグッジョブとゆいたいです


アニメ本編とは関係ないですが、しゅごキャラ!のファッションセンスに影響される形で
Buono!の皆さんがロリパンチックな衣装をお召しになっていることがありがたいのです。


だから「KERA ! (ケラ) 2007年 11月号」にBuono!が出ていたのを見て
「ウビャァーーーーーーーァーーーァーーーーー\(^o^)/」と動転したのであります。
ウソです。ごめんなさい。そんなに動転してないです。


雑誌ではだいたいHELLCATPUNKS(ヘルキャットパンクス)のやつ着てるみたいですね
ついつい土曜日は嗣永桃子さんに影響されて赤いタータンチェックの服を着てしまいます。


あまりハロプロのことは解りませんが、
嗣永桃子さんはパンクスタイルよりも、
フリルの付いたロリータスタイルの方が似合っているように思われます。

嗣永桃子写真集「momo」

嗣永桃子写真集「momo」

パンクファッションは夏焼雅が一番似合っているかもしれないです。
鈴木愛理さんのネクタイがポイント高いと思います。

ホントウのジブン

ホントのじぶん(限定盤)

ホントのじぶん(限定盤)

ゴスロリ雑誌では、「ほんとうの自分」という言葉にたびたび遭遇する。
そのファッションを身につけているとき感じるまわりの痛い視線に負けずに、
着用しつづけて欲しい、とゴスロリファッションを身につける「モデル」たちはいう。
「ドレスダウン(カジュアル)」が主流の現在のファッションや、
明るすぎ清潔すぎる現実世界の反動が、闇や汚れや極端な「ドレスアップ」を求めてしまうのかもしれない。


(小野原教子 "希(ねが)いの森――ゴスロリファッションに見る現代日本女性の下着観"
『現代のエスプリ』454,2005.5)

Buono!は「バカヤロー!ホントのじぶん」と歌い
ゴスロリ雑誌は「ほんとうの自分」を探してます。
しゅごキャラ!」の主人公、日奈森あむ
なりたい自分や周りに見せるキャラと自分の気持ちの差異に悩みます。


「本当の自分」なんて、今時皆から嘲笑されてしまうようなことを
真面目に言っちゃうの、嫌いじゃないです。


「本当の自分」は不可能だからこそ追い求められるもの。


――丸月罰日,日記(1)終――

ゴスロリ「大人・社会 / イノセントなワタシ」という対比

ゴスロリに対する言説として大人・社会的な制度へのずらしという意見があります。
例えば水野麗氏の論文ではゴスロリ(厳密には「王子」と「ロリィタ」)の方たちに
アンケート取材をした際の実感が語られている。

ロリィタ」の少女が実践している「少女趣味的」であること(「かわいい」)と、
大人が期待し社会が命令するような「少女らしさ」「女の子らしさ」とは
別物であることを痛感した。


(水野麗 "「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱――「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー"
『女性学年報』25,2004)

「王子」は「女の子らしさ」の競争を降りて別種の価値のレースを走っているのであり、
ロリィタ」は「かわいらしさ」の価値の捉えかたそのものを変更しているのだ、
と考えることもできるのではないだろうか。
(同上)

私には彼女たちが「女」であるという前提はそのままに、
むしろ性にまつわる「らしさ」、
まさにジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化を行なっているように見える。

(同上)


ジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化」を行なうものにとっては
「性的な視線」という制度は敵となります。

私たちは、日常生活を支配するさまざまな政治力から自由になりたくて、
ロリータという祝祭を求めている。
だからこそ、そこに入り込んでこようとする
「性的な視線」という権力を認めるわけにはいかないのだ。


松浦桃『セカイと私とロリータファッション』青弓社,2007,p185

セカイと私とロリータファッション

セカイと私とロリータファッション

アイドル「大人・社会 / イノセントなワタシ」という対比

実はアイドルに対する言説にも
"アイドルは「性的な要素」とは別な意味がある"とするものがあります。

"宇多丸×掟対談【第6章 非擬似恋愛対象】
: Pop Styleブログ : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)"
http://blog.yomiuri.co.jp/popstyle/2007/10/post_1265.html


宇多丸
擬似恋愛の終着点としての性欲処理ってことで言えば、
今やAVやグラビアが十分にその役割を果たしている。
だから、アイドルが担うべきは、実は全然そこじゃなかったってことですよね。



清楚っていうことがもうウソとしてしかまかり通らないと思われてたわけですよ。
でも、そうじゃなくて、清楚っていうのは単純に、
セクシャルな匂いを感じさせなければそれでいいということでもありますよね。
じゃあ、セクシャル以外の何を匂わせるんだってことです。
アイドルって女の子がやってるものだからというだけで、
セクシャルなのものを売りにさせられちゃう。
しかも、年齢が重なってくると、
成長の証として性を売り物にしなきゃいけなくなっちゃうんですね。


宇多丸
それがおじさん発想の限界ですよね。



実はもう誰も、アイドルポップスの中に性的な要素を求めてなんかいない。
できるだけそういったオヤジ目線の性的なものから遠ざかりたいからこそ、
アイドルポップスを聴いてる部分はありますよ。


宇多丸
世俗的なところを超えた多幸感を味わいたくて……


一部のゴスロリ言説も一部のアイドル言説も
「オヤジ的な性的視線」から遠ざかりたいためのものであるとする点で
同じベクトルを向いているということは非常に興味深いと思います。

花と共に在り、色と共に在り、少女は夢の中に生きているのです。
大人の男たちの性的欲望のまなざしから巧妙に身を隠すために、
少女は保護色の花々の中で一人で夢を紡ぐのです。


小倉千加子松田聖子論』1995,朝日文芸文庫)p160

「無垢」と「無垢」批判と

しかし「無垢性」を持ち上げることで責任や回避しているのではないか
という批判もできるかもしれない。


例えば、矢幡洋氏の
「ネオ・マゾヒズムに走る若者たち――リストカットゴスロリ・ムック」(『世界』723,2004.2)
という記事では「汚れた俗人に比べて、イノセントな僕たちはノーブル」だと考えてしまう
暗さ志向のある若者たちに触れ、
「自らの傷と不幸を誇示して相手から批判されたり、責任を要求されたりしないように先手を打っている」
ような責任回避の行動に否定的な見解を示している。


上記の記事はゴスロリ方面についてのものだが、
「少女」もまた「責任」から遠く離れた存在であると言えるだろう。


さて、上記で引用した読売新聞の宇多丸×掟対談の中では
アイドルに求めるものとして
「世俗的なところを超えた多幸感」
「俗世の色や欲に疲れた者の心を洗ってくれるためのもの」
という言い回しがなされるが、
そういった「世俗的なところを超えた多幸感」を少女に求める要因として
汚れてしまった私(主に大人になった<男>)の「少女的な無垢性」への憧れもあるのかもしれない。


少し先走って書いてしまうと
「無垢である状態」と「無垢を生きる」ことは違う。
そして「無垢を生きる」ことは単なる責任回避と断定するべきではないのではないか?
そのような漠然とした感覚だけをとりあえずここに記しておく。



擬似恋愛/非擬似恋愛

同じく、読売新聞の宇多丸×掟対談を呼んでいて興味深いと思った箇所は
AKB48を「擬似恋愛のツールとして優れている」/ Perfumeを「非擬似恋愛対象」
と捉えている点である。


宇多丸×掟対談は、Perfume特集としての記事なので
アイドルにおいては擬似恋愛的(AKB48)なものよりも非擬似恋愛的(Perfume)な方向が
これからのアイドルであるような書き方になっている。


何と言うか、これは一見とても心地良い言説なのだが、
それではAKB48側のアイドルヲタは全く救われないような気もする。


はっきり言ってしまうと、
宇多丸×掟対談においては、フェミニズムへの配慮の意識が
逆にアイドル現象とアイドルヲタの一面を消去する形になっているということだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――
いや、実をいうと私自身はアイドルと恋愛は全く関係ないと思っていた。
私はアイドルのイメージの欠片だけ適当に摂取していればそれだけで満足なので
アイドルに彼氏がいようが「そんなの関係ねぇ!」と海パンを穿いて踊れるのだが
どうやら、そういう人ばかりではないということに改めて気が付き
自分の視野の狭さにがっくりした。


――丸月罰日,日記(2)終――



「機能・商品・消費」としてのアイドル / 「あなたが生きているだけで・・・」としてのアイドル

私はアイドル存在がメディアや資本を媒介としているという端的な事実を見逃すべきではないと考える。
嫌な言い方をしてしまうと市場の中で、
アイドルは「商品」として「消費」される側面がどうしても出てきてしまう。


別にアイドルでなくとも、人は市場の中では、「親密な、大切なあなた」ではなく
「機能として、社会的な価値としてのあなた」にならざるをえない。
アイドルという存在も、市場の中で「売れなければならない」という命題をある程度は抱えている以上
「機能としての他者」の部分を背負っている。


ただ、アイドル現象は「機能としての他者」としては完結してくれない。
アイドルを応援する側は、アイドルに対して「それ以上」の何かを感じる。
それを陳腐な言葉で「愛」とでも表現すればよいのか?
アイドルは「親密な、大切なあなた」へと飛翔する。


私は、アイドルの
「商品として消費されてしまうという構造」と
「しかし、それにもかかわらず、ファンにとっては大切なあなた」になってしまうという
矛盾こそがアイドルをめぐる悲喜こもごもの要因になっているのではないかと考えている。


したがって、AKB48Perfumeの擬似恋愛要素の濃淡に関する違いの件については
概ね当たってるかもしれないが、
>>「アイドルに擬似恋愛とかっていうのは、別に本質じゃないって!全然。」
というライムスター宇多丸師匠の発言については
「そう思う人もいるが、そう思わない人もいる」と答えてしまう。

恋愛とは、近代の中で最後に残った不条理なのです。しかもその不条理とは、
近代的恋愛そのものに内在しているのです。
端的に言えば「好き嫌いは差別である」ということです。
恋愛の魑魅魍魎性は、近代の「平等」という理念をすり抜け、
常に差別される者を生み出し続けているのです。


小倉千加子松田聖子論』1995,朝日文芸文庫)p180


アイドルが売れるためには沢山の人に好かれなくてはいけないわけだが
そこで「恋愛の不条理性・閉鎖性」と衝突してしまうのではないかと感じている。


――丸月罰日,日記(3)終――

宮台真司の音楽コミュニケーション4機能におけるゴスロリ/歌謡曲(アイドル)


宮台真司は音楽コミュニケーションの4機能として
「シーンメイキング機能」「関係性提示機能」「お耽美化機能」「歌謡曲的ネタ化機能」
を挙げている。

宮台
三つ目の、異世界提示機能を要求する人たち。萩尾望都山岸凉子から、
『JUNE』とヴィジュアル系を経て、いまのゴスロリにいたる人たちね。


(中略)


最後の四つ目は、歌謡曲的なネタ化機能を要求する連中ですが、
まあ2ちゃんねるなんぞに集って擬似的な共同体を作っているわけで、
これだって「酷薄な流動性をやりすごすツール」になってるんじゃないかな。


鈴木
いまでは「モー娘。」化ですね。


宮台真司,鈴木謙介,東浩紀「脱政治化から再政治化へ」
波状言論S改――社会学・メタゲーム・自由』青土社,2005,p125)

さて、細かい点は置いておくとして、
ここでは
「お耽美化機能」としてゴスロリが例示され、
「歌謡曲的ネタ化機能」は、オタク的なコミュニケーション・ツールとされ
具体名に鈴木謙介氏により「モー娘。」が例示されている。


これを読んだときに不思議に思ったのは
果たして「モー娘。」の楽曲は「歌謡曲的なネタ化」として機能しているのか?ということだった。
勿論、聴く側の受け取り方は多様なので、ネタ化ツールとして受け取る人もいるだろうが、
モー娘。はそれだけではないだろうと、モー娘。を全く知らない私ですらそう感じる。


有り体に言えば、もうちょっと真剣に聴いてる人も大勢いるのではないかということだ。
例えば「異世界提示機能」としてアイドルの楽曲を聴いている人がいないとは言えない。


以前、桃井はるこヴィジュアル系バンドの受容のされ方が似ているのではないか
という指摘を受けたことがあり、なるほどと感じた。
例えば桃井はるこの曲を「オタク的なコミュニケーションツールとして」考えることは容易いが
きっと、それだけでは掬いきれない想いがある。

参考:"桃井はるこヴィジュアル系"
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20060121/p1


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「アイドル分析雑誌」の隆盛を支えていたような「作為性の楽しみ」も、
当初のサブカルチャー的な積極的な諧謔趣味――価値の意識的なずらし――から、
自己防衛的な消極的な韜晦趣味――「どうせオイラは」的なもの――へと、
変質していかざるを得なかった。


宮台真司, 大塚明子, 石原英樹
サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』1993)


おニャン子クラブにおける楽屋裏が80年代的「楽屋落ち」であり
ASAYANにおけるモーニング娘。の楽屋裏が決して安易な「楽屋落ち」にはならなかったことを考えると
つんく♂モーニング娘。において行なったことは
アイドルの受容態度を「どうせオイラは」的なものから、
もう一度真剣にアイドル的な物語を復古させようとした運動だったと捉えられるかもしれない。


(この書き方では、おニャン子クラブファンの方が怒るかもしれないので、直ぐに捕捉するが
おニャン子クラブファンの想いそのものは真剣だったと考えるべきだが
おニャン子クラブを仕掛けた側の戦略として「楽屋落ち」的なものがあったのではないか?
というような意味である)


多分、そろそろ
諧謔でもなく「どうせオイラは」でもない、
アイドルへのアプローチというものの可能性について考えなければならないような気がする。


――丸月罰日,日記(4)終――

アイドルに拒絶される可能性に開かれている


もう一ヶ月以上前になってしまうが、クイック・ジャパンのPerfume特集は面白かった。

クイック・ジャパン74 (Vol.74)

クイック・ジャパン74 (Vol.74)


それに関連した以下の文章もやはり興味深い。

"Hang Reviewers High / クイック・ジャパン74"
http://someru.blog74.fc2.com/blog-entry-109.html


ここでもやはり、キーワードとなってくるのは「愛」なのである。

アイドルは決して我々を試さない。
アイドルは原則的に我々を愛するし、自分たちに対する我々からの愛を疑わない。
我々が試されているのは、ただ我々自身によってのみである。
彼女たちの一途さを受諾するかどうか、我々は逡巡している。
我々がアイドルに戸惑うときも、アイドルはただじっと我々に愛されるのを待っていてくれるのだ。
我々はアイドルに許されている。愛とは何か。それは物語を信じる力だ。


アイドルと恋愛は関係ないと考えていた私にはとても刺激的な文言であった。
だから、私はこう書く。


我々はアイドルに拒絶される可能性へと開かれている」と。


私はアイドルに全面的に許されてはならない。
アイドルの偶有性と不確実性こそ、アイドル存在の根幹であると。
(いや、私が物語を信じない愚か者であるだけだ)


――丸月罰日,日記(5)終――

アイドル/ロリィタ/フェミニズム

アイドルたちの「存在感の稀薄さ」「国籍不明性」「清純」といったコンセプトは
偶然によってできあがったものではありません。
天地真里は、ウーマン・リブへのアンチ・テーゼとして投げつけられた
男性社会からの爆弾だったのです。


小倉千加子松田聖子論』1995,朝日文芸文庫,p49)

小倉千加子フェミニズム的観点からアイドルというものを考えたときに
アイドルのコンセプトはウーマン・リブに対するアンチ・テーゼであるとしている。

『アリス』の物語の享受のされ方には、
ヒロイン(=読者少女たち)が、作者(=男性)の欲望の対象(客体)とされることによって
主体となる,という構造が認められうる。


(西村則昭 "「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ
――あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み"
仁愛大学研究紀要』第3号,2004,p23-37)

上記の論文では
ゴスロリ趣味の人間に人気の高い、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の受容のされ方に潜む
男性の欲望を介した構造について言及している。




アイドルのコンセプトもロリィタ少女の表象も一見すると
女性の欲望が男性の幻想に従属している」状態であると言える。



アイドルを見る暴力、見ない暴力。視線から永遠に逃れ行くアイドル

2ch】日刊スレッドガイド : 大阪万博公園でのハロプロイベントが地獄絵図だった件
http://guideline.livedoor.biz/archives/50997763.html

前列にいるにもかかわらず、双眼鏡で若い娘さんを見ようとする光景は不気味である。
「他者への眼差し」に潜む暴力性が戯画化されたかのようなこの光景に
どのような言い訳をすればよいのだろうか。もしくは言い訳など必要ないのか?


アイドルへの眼差しはアイドルを対象化させてしまう。
まさに、サルトルが言った意味で「地獄とは他人のことである」(『出口なし』)。


では、アイドルを双眼鏡で見なければ良いのか?
例えば、古典的な(そして純粋な気持ちな?←バカバカしい)ファンレターでも書けばよいのか?
性格が歪んでしまった私は、
一方通行の贈り物ですら、与えるわたしに精神的な満足をもたらしてしまうのであれば
贈与はいつも不純であると考えてしまう。
失うことを同意しても、すぐに返済要求に代わるかもしれない。


もちろん、今現在書かれているこの文章も、精神的な自己満足に過ぎないものだ。
私はアイドルを、人間を愛することなど出来そうにない。


双眼鏡の例はあまりに誇張され過ぎているにしても
アイドルとアイドルオタクの視線の非対称性をアイドルオタクの側から記述するならば
掴もうとしても逃れ行く他者を、
それでも捕まえようと努力するその無限の営みとして捉えられるものなのかもしれない。


――丸月罰日,日記(6)終――

アイドル-ゴスロリ-幻想と幻想

アイドルを愛する者、アイドルの存在そのものを享受しようとし、
アイドルを全的に体験しようと努力しつづける真摯なアイドルファンの方々と


自らの特定の目的との関係でアイドルの表面に宿るイメージを摂取しているに過ぎない
私のようなクズ人間は、違う道を歩んでいた。


従って、私は私の幻想を立脚点にしてアイドルを記述するしかない。


せめて、フランセット・パクトー(1996,p245)の言うように、
『女性が美のイメージに捕らわれること、「捕縛(captivity)」という見地からではなく、
女性が美のイメージに心を奪われること、魅惑(captivation)というもっと示唆に富んだ見地から』
という肯定的な側面に目を向けてみようと思う。

美人―あるいは美の症状 (Kenkyusha‐reaktion books)

美人―あるいは美の症状 (Kenkyusha‐reaktion books)

彼女たちはアリスに「同一化する」のではなく,アリスを「演じる」.
「同一化」とは,与えられたイメージをそのまま我が身に受け取ることであるが,
「演じる」とは,そうしたイメージの深層を見抜いた上で,
それを我が身に,主体的に(ここがポイント!),引き受けることであるから.


(西村則昭 "「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ
――あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み"
仁愛大学研究紀要』第3号,2004,p23-37)

ゴスロリロリィタはアリスを演じる。

要するに聖子は、たくさんの人の夢を投影されているから、
かわいい女の子を自分は演じているのだ、と言っています。
しかも自分はその時、ただ演じているのではなく、
完全にそれになりきってしまえる、ということを自慢しながら語っています。


小倉千加子松田聖子論』1995,朝日文芸文庫,p23)

アイドルもかわいい女の子を演じる。


両者とも「演じる」ということで、従属の立場を脱却するという点で似ている。
多分、幻想は固定的な「主体(男性) ― 客体(女性)」と見るだけではなく
もっとダイナミックな主体と主体の間で循環するようなものとして
捉える方向性として理解されるべきものなのではなかろうか?


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さて、ついにここで個人的にとても気にかかっていたコメントを引用する時が来た。
id:CharlieGordon氏が私の下らない日記に残して頂いたコメントを。

"コメント欄:第1回モーニング娘。学会 参加報告"
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070815#c1187393454


20世紀末にいったんアイドルが滅びた原因として
フェミニズムの席巻があった、というのはあると思うんですよね。


フェミニズム思想そのものが中学の公民の教科書になってたぐらい
公と化していた。


そういう時代背景の中、
みずから歌手になりたい、と志願したモーニング娘。
フェミニズム的に、
非常に心地よい存在だったと言えるのではないだろうか。


フェミニズムの根幹のひとつは、主体性なのですから。


そして、アイドル歌手という形態そのものは、
たまたま異性との競演を排する存在だったので、
「女性は清純であれ」と願う保守的考えにも沿っている。


「アイドルであることをセルフプロデュースしてみせる」
は、フェミニズムと保守の両面をクリアできた、稀有な思想なのだ。

もちろん、あやういバランスの上になりたっているけれども。


「セルフプロデュースできないアイドル」は
同世代の同性から軽蔑され、
「アイドルでないライフスタイルをセルフプロデュース」すると
清純さを求めるタイプの異性から攻撃される。


もしこれをどうにかしたかったら、
アイドルの概念そのものを変えるために闘うしかないのかも。
闘う以外の選択肢は、許容するかひきこもるか、ぐらいなので。

http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070815#c1187406236


なぜモーニング娘。は必ずオーディションを経るのか。
なぜしょこたんはモチベーションのルーツを熱く語るのか。
主体性を証明できないアイドルは、
現代の社会の中で、存在そのものができないからだったのかあ。


上記と同じ言葉を繰り返すと
「幻想は主体と主体の間で循環」するものだという発想と
『「アイドルであることをセルフプロデュースしてみせる」
は、フェミニズムと保守の両面をクリアできた、稀有な思想』
というCharlieGordon氏の言葉は同じベクトルを向いていると考えてよいかもしれない(本当か?)


蛇足だが、現在テレビのバラエティ番組等で活躍しているアイドルの多くは
『「かわいい女の子」を演じない』という振る舞いをすることで
バラエティでの立ち位置を上手く得ているが、
これもフェミニズムの席巻の影響と考えることが出来ると思う(本当か?)


――丸月罰日,日記(7)終――

アイドルとゴスロリの分かれ目


さて、アイドルとゴスロリについて
『両者とも「演じる」ということで、従属の立場を脱却するという点で似ている』
と書いてしまったが、アイドルとゴスロリの演じ方の差異の方も考えてみたい。


ここでも、西村則昭氏の論文を補助線にしてみる。
まずは、論文中にロリータ系の少女と対比される形で紹介された
「ガーリー・アイデンティティ」について氏は以下のように記述している。

彼女は,真面目に「男のための女」に同一化しているのではなく,
「男のための女」を演じながら,そこから抜け出し,別の魅力を醸成しつつ,
主体であろうとしているのである.彼女はガーリー・アイデンティティをもつ.


(西村則昭 "「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ
――あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み"
仁愛大学研究紀要』第3号,2004,p23-37)


西村氏が紹介する「ガーリー・アイデンティティ」は
男性の価値観を認めた上で、それを逆手にとるという意味において演じるようだ。


なんというか、すごくアイドル的である。
(もちろん、全てのアイドルがそうだというわけではない)
アイドルの「演技性」は「ガーリー・アイデンティティ」の演技性と近いように思える。

松本隆と聖子が示唆した方法は、「男」と「女」の記号を、
萩尾望都のように逆転させる試みではなく、
記号を醒めた意識で対象化して視ることで、実体から記号を離脱させ、
しかる後にそれを選び直すという方法です。


小倉千加子松田聖子論』1995,朝日文芸文庫,p194)


それに対して、ゴスロリの方はどうだろうか。

一方,ゴスロリの子はというと,彼女たちは,
この現実の価値観にあまり関心がなく,
この現実から独立した想像的な世界観に,安らおうとする.

結果的に,その特異な世界観は,その高邁な美意識を解しない世の男性が,
不用意に彼女に近づくことを拒絶する.


(西村則昭 "「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ
――あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み"
仁愛大学研究紀要』第3号,2004,p23-37)


もちろん、これもゴスロリを着ている人全てがそうだというわけではないだろうが、
「演技性」から出発しながら、独自の世界観に閉じる方向に帰着するというのは
アイドル的なものとの違いとして考えるきっかけにはなるだろうと思う。


以前、私は『ケガドル!』という写真集についての違和感について書いたのだが、
やはり、アイドル的なコンセプトでゴスロリ文化を模倣しようとすると
「媚びの演技性」の部分が全面に押し出されてしまうので
ゴスロリ文化の魅力である「閉じた美意識」が無くなるのである。

写真集「ケガドル」は萌え文化かゴスロリ文化か?――「ゴスっぽいものが好きなオタク」
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070804/p2


――丸月罰日,日記(8)終――



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しゅごキャラ!」という作品では「ココロのたまご」(しゅごたま)という言葉が出てくる。
どうやら、通常は一人につき一つの「ココロのたまご」を持っているらしい。
その「たまご」から「しゅごキャラ=なりたい自分が形になったもの」が生まれるわけだが
主人公の日奈森あむは三つのしゅごキャラを持っている。
アニメを見ている限り(まだ私はマンガの方は未読です。ごめんなさい)
三つのしゅごキャラを持っていることは珍しいことのようである。


私は全ての人が幾つものたまごを持っていて欲しいと願う。


「本当の自分」など不可能だ。
そして「本当の自分」は複数存在する。


あたしのココロ アンロック
――丸月罰日,日記(9)終――