「性-記号」or「性/記号」-「エロマンガ is Dead(or Alive)special issue 2007」の断片

新宿ロフトプラスワン。2007/1/31。19:30〜23:00。
永山薫エロマンガ・スタディーズ』出版記念イベント?
詳細レポは偉い人に任せて、此処はごくごく個人的に、私的に記す。
記憶違いや間違いも多数あるだろうと思うので、本気にしない方がよいだろう。私は白痴である。


・第一部:伊藤剛永山薫小谷真理東浩紀
・第二部:永山薫ダーティ松本、OHPしばた、町田ひらく環望山本夜羽音


多分「第一部みたいな話を聴きに来た人」と「第二部みたいな話を聴きに来た人」各々いたのではなかろうか?
私は完全に前者のみ。エロマンガどころか最近はマンガ全般を読んだ記憶がない堕落した人間。
従って、第二部の内容は固有名などが全く理解出来なかったが、これも修行と思い拝聴した。

東浩紀「性-記号」or斎藤環「性/記号」

東浩紀が、自らと斎藤環の相違点を述べる部分があった。私の理解(誤解)では


A:東浩紀「性-記号」(性と記号の両義性)
B:斎藤環「性/記号」(性と記号を切り離す)


このような感じだったような気がする。
勿論実際は、両者の主張がこのような単純な形で示せるものではないことは百も承知だが
ここでは解りやすさを優先して、東と斎藤の名前を配置した。


B:斎藤環「性/記号」論は、オタク的表現規制に対する対抗策の<戦略>としては<アリ>だと東は言う。
つまり「オタク表現(つまり記号)と性(現実のセクシュアリティetc..)は切り離せる(別モンだ)から、
オタク表現を規制しても意味がない」というような形で使えるということだ。


だが逆にいえば、オタク表現は<単なる記号しか>表現出来ないモノということになってしまう。

大塚英志「記号的身体」

東浩紀大塚英志の「記号的身体」について
これは「性-記号」の両義性について述べたものではないかとおっしゃっていた。

つまり、手塚はここで記号の集積に過ぎない、非リアリズム的手法で描かれたキャラクターに、
撃たれれば血を流す生身の肉体を与えているのである。
ぼくはこの一コマこそが、手塚まんがの、そして「戦後まんが」の発生の瞬間だと考える。
大塚英志アトムの命題 - 手塚治虫と戦後まんがの主題』第三章 1945年6月『勝利の日まで』脱稿より)

大塚は、[記号−非リアリズム-キャラクター]と[生身の肉体-リアリズム]の
>「記号的でありながら生身であるという矛盾したキャラクター」(同上 p162より)
こそ手塚治虫、そしてその後のまんがの重要な主題と位置付けている。


大塚にとっては「性/記号」を切り離す言説は、
上記の命題を捨象することになるので許容できず
だからこそ、大塚は「おたく表現」に何らかの責任を問うているのではないか?


みたいなことを言っていた気がする。(ここらへんすげー曖昧)


なぜ曖昧なんかって言うと、
大塚英志信者としては伊藤剛永山薫小谷真理東浩紀の四人が
大塚英志について喋っているっていう状況に興奮してしまい冷静さを欠いてしまったので
しっかり聴いてなかったっつうことなんだけどね。だから今こうやって、書きながら思い出そうと。


もう思い出せないので、イベントとは関係ないこと書いちゃうもん。

平塚らいてう「性=愛」or大杉栄「性/愛」

上記の東浩紀の話を聴いて
杉田聡『レイプの政治学レイプ神話と「性=人格原則」』で書かれていたことを思い出した。


A:平塚らいてう「性=愛」(性と人格は不可分)−(情緒的要素の重要性)
B:大杉栄   「性/愛」(性と人格を切り離す)−(自由恋愛=男権的官能)


ロフトプラスワンのイベントで東浩紀は<萌え>は「エロか?ピュア(純愛)か?」
という問いは、どちらも「性/記号」論の上に成り立ってると言っていたような気がする。
(ちょっとこれの意味が解らなかった。だから以下の文章もよく解らないまま書いてますよぉ)
ーー07/02/02追記ーー
上記訂正部:どうやら私の聞き間違えっぽぃ。
「萌え」はエロかピュアという二項対立自体が
「性-記号」であることの証なのではないか?みたいな話だったかもしれない
ーー追記終了ーーーー


つぅことで、今まで考えたことをヒントに
「萌えはエロ」派と「萌えはピュア(純愛)」派を分けてみた。よくわかんね


・<萌え>は<エロ>:「性-記号」且つ「性/愛」
・<萌え>は<純愛>:「性-記号」且つ「性=愛」

よくわかんね

マンガ・アニメ・美少女ゲームラノベだけじゃなくて

こんな思考実験が、私と何の関係があるのか?
それは「アイドル」を考える際の手段としてだと思っている。


・その先に実体としての人間がいない→マンガ・アニメ・美少女ゲームラノベ
・その先に実体としての人間がいる →アイドル
 


「その先に実体としての人間がいるか?」問題は極端に書けば
→・「実体のないマンガ・アニメ・ゲームのキャラに性的に欲情する」=キモイ
→・「実体のないマンガ・アニメ・ゲームのキャラは現実とは関係ない」
のように様々な形でみられる。


確かにアイドルは「その先に」実体が存在する可能性が、マンガ・アニメ等より高い。
だが、現在アイドルは様々な形でパッケージ化され、商品化され、アイドルヲタに届けられている。
従ってアイドルも、アニメやマンガの評論の枠組みで語れる部分があるのではないか?
特に大塚英志
記号的でありながら生身であるという矛盾したキャラクター」は
正しくアイドルのことなのではないか?


ーー07/02/03追記:近年の具体例ーー
・ゲーム「THE IDOLM@STERアイドルマスター)」
・アニメ「きらりん☆レボリューション」と久住小春 (モーニング娘。)の連動
テクノポップアイドル「perfume」→生身の人間なのに機械のようにぎこちない身体表現と音楽


⇒「性(身体)」と「記号」は深く結びついてるのではないか?
従って、「二次元-実体がない/三次元-実体がある」というのは安易な見方に過ぎないのではないか?
アイドルだけではなく、普通に生活している私たちも例外ではないのではないか?
女性ファッション誌などで「服」だけでなく「振る舞い(コミュニケーション)」
までも「流行」や「型」として紹介するのはなぜか?


私たちの身体(性的身体)は規範化されているのではないか?
ーー07/02/03追記終了ーー


そろそろ肩が凝ってきたので筆を置く。