アイドルはオタクなのサブカルなの
以下は2007年8月14日に某所で開催された
「ダブルユーのおそうしき(第1回モーニング娘。学会)」において
この日記を書いている中の人が行なった独演妄想話に使われた資料を元にしたものである。
「モーニング娘。学会」と聞いたとき「キモイ」「アホくさ」と思った。
受け付けで「モーニング娘。学会の方ですか?」と言われたので
慌てて「違います」と反応してしまった。
「ただのオフ会ちゃんかボケ」
だが、違った。はっきりと断言できる。これはオフ会ではない。
否、8時間も抽象的な議論を展開することがオフ会であるというのなら
オフ会と言ってもよいのだが、どうもしっくりこない。
あぁ、マジで学会だったのね。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
- 結論:
「アイドルはオタクかサブカルか」という問い自体が無意味である。
- 裏キッカケ:
はてなダイアリーにおいて、アニメ・マンガに関する批評・評論は
割と頻繁にブックマーク等が付き、注目されるが
アイドルに関して何か批評・評論しているものがあっても
ブックマーク等ではほとんど注目されないのは何故か?
- 仮定:
アイドル論はアイドルブームが去った80年代の終わりと共に衰退した。
80年代に主にアイドル論を語った人は新人類と呼ばれた人たちであり
彼らの使うニューアカ的な言語も80年代の終わりにブームが去った。
一方、1989年の宮崎勤事件から引き起こされた、おたくバッシングに対して
おたく擁護をした人物たちは、
基本的にはアニメ・マンガを中心とするおたくたちであった。
1990年代にかけて、アニメ・マンガ等のオタク語りは整備された。
この歴史的な経過が、現在のブログ界隈での
「アニメ・マンガ(後にライトノベルやエロゲー)」の「オタク語り」と
「アイドル」への「アイドル語り」の量や注目度に反映されているのではないか?
はじめに。導入
ユリイカ2005年8月増刊号 総特集=オタクvsサブカル! 1991→2005ポップカルチャー全史
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赤田 モーヲタっているじゃない。あの人たちはオタクなの? サブカルなの?
―― やっぱりオタクなのかな・・・・・・?
赤田 すごくサブカルチャーっぽい感じしない?
(中略)
赤田 オタクですか? サブカルですか?ってインタビューしたらいいんじゃないかな?
赤田裕一,ばるぼら,"総特集 オタクVSサブカル! サブカルのルーツは古着族だった!?"
『ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史』
p38-39
新人類対オタク?
―― 最近ひとから聞いて面白かったのは、なんでオタクとサブカルが対立してるかっていうと、
それは新人類側の中森明夫がオタクと名づけたからだと。
(同上)p40
80年代のアイドル論:中森明夫
さぁ中森明夫の名前が出てきました。ちょっと長いですが読んでいきましょうか。
改行や文章間の空白は私が改変してしまったのですがご了承くださいね。
そいでまぁきゃつらも男なんだから、
思春期ともなればスケベ心のひとつも出てくるだろう。
けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、
女なんか出来るわきゃないんだよね。
それに『おたく』ってさぁ、もう決定的に男性的能力が欠除してんのよね。
でたいがいはミンキーモモとかナナコとかアニメキャラの切り抜きなんか
定期入れに入れてニタニタしてるんだけど、
まぁ二次元コンプレックスといおうか、実物の女とは話しも出来ないわけ。
これがもうちょいマシになると、
女性的存在をあんましアピールしないアイドル歌手のほうへ行ったり、
屈折してロリコンしたりするってわけ。
それで成熟した女のヌード写真なんか絶対受けつけないんだよね。
(中略)
でそういう奴らでも唯一許せるのが、
あのおたく雑誌『GORO』でやってる紀信の激写なのであった。
ホラ、くみこクンにお手紙を書いてみませんか、
気に入ったお便りには彼女が返事をくれますっていうあれだよ。
もう考えただけでゾッとするけど、
編集部には何万って『おたく』からの手紙がギッシリと届いてんだぜ、きっと。オエ〜〜。
・「おたく」キモイ ・男性的能力欠除
・二次元コンプレックス → マシになると女性的存在をアピールしないアイドル歌手などへ
なるほどねぇ。でもさぁ、今の私たちからしてみたら
「アイドルおたく」って言っても問題ないような中森明夫が
「アニメおたく」キモイ、なんて言っちゃってるんだねぇ。
中森明夫批判
中森明夫とそのお仲間たちは当時、アイドルについて、なんやかんや喋ってるわけですね。
例えば、小泉今日子は賛美するんですよ。
それはいいとして、びっくりするのは彼等は
菊地桃子は「遊ぶタイプ」「寝るタイプ」だと言って否定すんですよね。
『卒業』が興味深いのは、彼らが口を揃えてアイドルなり少女たちと
自分の性的願望を結びつけないように腐心している点である。
その背後には稲増が指摘したように近田春夫の歌謡曲論から
ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』に至るアイドル論が、
アイドルというシステムそのものへの批評へと向かっていく中で成立していった、
という事情がある。
そこではアイドルをめぐるシミュレーショニズムは語られるが、
彼らのアイドルたちへの肉体への欲望は語られない。禁忌となっている。
(大塚英志 "岡田有希子と「身体なき」アイドル"『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』)
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新人類トリオが語ってみせたバーチャルな身体への欲望の質は結局のところ、
中森が批判した現実の少女を忌避する、
アニメやコミックの少女たちへの欲望と本質的に変わりない。
そこでは、少女の身体ではなく、自分たちが少女に寄せる欲望を情報化したものが
彼女たちの身体とは別の次元に成立している。新人類トリオにとってはそれはニューアカ的な過剰な言葉であり、
おたくたちにとってはアニメやコミックのキャラクターである。(同上)
まぁ宮台真司氏もおっしゃっているように、これは内輪での差異化に過ぎないわけですね。
アイドルは廃れた。
80年代はアイドル全盛時代なわけじゃないですか。
だから
「新人類的語りの一つ-アイドル / おたく的対象の一つ-アニメ・マンガ」
という対立もまぁ成り立つっちゃ成り立つのかもしんない。
90年代前半は「アイドル冬の時代」なんて言葉がありました。
80年代までのアイドルシステムのモデルが崩れたわけですね。
同時に80年代のニューアカブームも終わってしまったわけです。
一方、おたくの方は1989年の宮崎勤事件によるおたくバッシング以後
けっこう活発に発言してます。
その成果として岡田斗司夫がおたく(→オタク)は素晴らしい存在だとする
『オタク学入門』というものが出たりした。
で、今は「萌え」なんて言葉がある程度一般に知られるぐらいになってる。
オタク論壇にはアイドルオタクはいない
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この雑誌の宇野常寛氏が書いた記事に
「最新オタク・マスコミMAP」というものがあるのですが
ここで挙がっているオタク評論家たちの評論対象は基本的に
アニメ・マンガ・ライトノベル・エロゲーなんですね。
つまり、オタク論壇にはアイドルオタクはいないんですw
因みにこの特集全体の中にはアイドルに触れている記事がけっこう多くあります。
・しょこたん(中川翔子)
・パロディAV(涼宮ハヒル)
・ファン離れが加速するモー娘。
・アキバ系アイドル
・AKB48(秋元康インタビュー)
・声優業界(アイドル声優の話含む)
・ジュニアアイドル(U-15アイドル)
こんな感じで個々のシーンはあるわけですが、
繰り返しますが、オタク論壇にはアイドルオタクはいないんです。
(現在のオタク論壇の語りを流用してアイドルを語ることは可能である)
→久住小春/月島きらり。東浩紀的、あまりに斎藤環的 - 死に忘れましたわ
→本田透はアイドルヲタを消去している。山本寛はアニメとアイドルを繋ぐ - 死に忘れましたわ
つまり80年代に「おたく」という言葉が明確な形として出来上がり
90年代を通して、アニメやマンガ、後にライトノベルやエロゲーの語りは整備されていった。
しかし、「アイドル語り」はその中に加わっていなかったのではないか?
というのが、私の印象です。
(だから、ライムスター宇多丸さんがアイドル批評をやっていたとしても
オタク論壇の内部からは見えないのではないか?)
(参考:「コラム界のアイドル左翼」ライムスター宇多丸さん――TBS RADIO ストリーム コラム要約 - 死に忘れましたわ)
(自身がアイドルでありながら
アニメの声優もこなし、とうとう自分の描いたマンガが掲載されちゃうという
中川翔子さんが、ついでにアイドル評論もやっちゃえばいいのに)
スターからアイドルへ。そして、アイドル分析からパンチラへ
さて、ここで一旦、本当にざっとではありますが、退屈な歴史のお勉強でもしておきましょう。
そもそも「アイドル」って何時からいるんでしょうね?
いや、現在からみたら「アイドル的存在」と言われる人はずぅっーーと前から居たでしょうけど、
明確に「アイドル」って言葉が一般的に使われだしたのって何時なんでしょうね?
私が勉強不足なので、しっかりとは解らなかったのですが、
>>・1960年代前半:(スパーク3人娘・ナベプロ三人娘)伊東ゆかり、中尾ミエ、園まり
このときは、まだ「アイドル」と明確には言われてないというような感じがします。(ちょうど、団塊の世代の思春期と重なる)
それで、まぁ新人類の中森明夫大先生によるとw
その起源は諸説あるが、南沙織こそ現在のスタイルでの
「国産アイドル第一号」と呼ばれることが多い。
中森明夫『アイドルにっぽん』p10
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1971年には南沙織(篠山紀信の奥さんだぜ)、小柳ルミ子、天池真里が
三人娘なんて呼ばれてます。
そんで、この後に花の中三トリオに繋がるわけです。
>>・1971年〜:オーディション番組「スター誕生!」放送開始
>>花の中三トリオ:森昌子、桜田淳子、山口百恵
長寿番組となった『スター誕生!』からは、
山口百恵、桜田淳子、森昌子の中三トリオに代表されるように低年齢のタレントが輩出。
1970年代から1980年代にかけて素人っぽさを売りとするアイドル歌手全盛の時代を迎える。
これが、譜面が読め歌唱力もある教育された大人のタレントを多く揃えた渡辺プロを脅かしたのだった。
(ウィキペディアのスター誕生のページより)
そんな感じで、とりあえず70年代からアイドルというものが始まったと考えてよさそうです。
ちょっと飛ばして70年代後半にいきます。ここからは宮台真司による解説を見ていきましょう。
(以下の引用は『サブカルチャー神話解体』から)
サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在
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とりわけ78年以降、『よい子の歌謡曲』『あいどる倶楽部』『アイドルトーク』などの
アイドル研究誌や、『BOMB!』や『投稿写真』などのアイドル特集記事が、上昇を開始するのである。
これらは既存のアイドル雑誌(『明星』『平凡』など)とはまったく異質で、
アイドルの生産システムや曲作りの分析など、
舞台裏に焦点を合わせた「クールで分析的」(稲増[1989])な視点に特徴があった。
実際、歌謡曲のメタ的享受の内部を見ても、
当初、『ポパイ』に歌謡曲エッセイを連載して筒美京平を再評価した近田春夫や、
クレイジーキャッツ研究を押し進めた大瀧詠一のような
「クロウト視点」は次第に退潮し、代わりに、
「B級アイドル礼賛」に象徴される「価値転倒」と「仕掛け」を楽しむ
「裏目読み視点」が、もっぱら拡大していくことになったのである。
で、この「価値転倒」「裏目読み」を自覚的にやったのが「おニャン子クラブ」ですよね。
かくして、音楽コミュニケーションにおけるコードが空洞化し、
すべてが横並びになったとき、アイドルブームはパワーを失い始める。
「アイドル分析雑誌」の隆盛を支えていたような「作為性の楽しみ」も、
当初のサブカルチャー的な積極的な諧謔趣味――価値の意識的なずらし――から、
自己防衛的な消極的な韜晦趣味――「どうせオイラは」的なもの――へと、
変質していかざるを得なかった。
宮台真司はこの変化を
『「アイドル分析」的なものから「パンチラ的」なものへ』と表現しています。
大澤真幸の戦後日本の区切り方とアイドルの歴史
社会学者の大澤真幸が戦後の日本の歴史に対して面白い区切り方をしています。私なりに適当にまとめてみました。
A:1947-1973;理想の時代
B:1973-1995;虚構の時代
C:1995- ;不可能性の時代(東浩紀-動物の時代)(木原善彦-諸現実の時代)
それで、これをアイドルの歴史と無理やり繋げて考えてみようかな、なんて思います。
A:「理想の時代」は「スターの時代」
B:「虚構の時代」は「アイドルの時代」
こんな風に考えてみました。でも、これじゃちょっとおかしくなる。
80年代後半からもうアイドルは解体されてきているんじゃないかと。
それで、90年代前半ってそれまでのアイドルの形とは違うものになるんですよね。
例えばCMで話題になって、女優になったり、アニメの声優さんがアイドル化したり。
歌を歌うにしても「歌謡曲」というより「J-POPのアーティスト」と言った方が適切な感じになる。
(参考:超適当なアイドル私論 - 死に忘れましたわ)
お待たせしましたwやっとここで、モーニング娘。の話に入るわけですが
C:「不可能性の時代」とモーニング娘。(1997年9月7日結成)
これって対応してんのかなぁ、とか、そんなことを考えました。
だから、ハロプロヲタの人は「虚構の時代」の「アイドル語り」(80年代に盛んに行なわれた)
とは違った形の「アイドル語り」をすればいいんじゃないかい。とか、無責任に押し付けてみます。
メディア経験重視か現場での体験重視か?
あれ、この発表のテーマなんだっけ?
そうだった。「アイドルはオタクかサブカルか」だった。
ARTIFACT ―人工事実― :
メディア経験主義のオタク、現場主義のサブカル
―アキバにオタクを代表させることはオタクを現場主義にさせてしまうだろう―
http://artifact-jp.com/mt/archives/200608/mediaotakusitesubcul.html
ユリイカのオタクvsサブカル特集の著者の加野瀬未友さんが面白いことを書いています。
90年代以降の声優ブームは、現場主義、体験主義も関わってそう。
アイドルマニアの間でも、
1980年代から現場派とメディアを通した情報を重視する派閥(よいこの歌謡曲とか)にわかれていて、その延長にあるんだろうけど。
アイドルには様々なコンテンツ(CD・DVD・写真集・・・)があるが
コンサートや握手会・撮影会・サイン会などの「現場」が多いのも特徴としてあると思います。
そういった「現場的なもの」が行なわれる場所は
特定の地方出身のマイナーアイドルといった例外を除いては大都市圏で行なわれる。
アニメ・マンガ・ラノベ等に比べて「現場」が多いという事実があるアイドルは
オタク的なコンテンツでありながらサブカル的な色彩を帯びやすい?
アイドルは<状態><存在>
ナンシー関はアイドルは<状態><存在>であると書いている。
アイドルというのは、歌がうまくてかわいくてなどという素材の問題ではないと思う。
素材と客との関係性において発生する「状態」のようなものだ。
たとえ歌ってくれなくても笑ってくれなくても、
存在してくれていることにカネを払おう、という客こそが「アイドル」の根拠ではないのか。
本当のアイドルは何もしなくていい。でも歌(CD)や写真集を出すのは、
支払い先のない客の消費行動の受け皿をつくるためだと思う。
(ナンシー関『聞く猿』)
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(因みにこれは華原朋美について書いている文章中に出てくる)
これを踏まえると、
単純に「メディア経験重視 / 現場重視」という形だけで語るのは難しくなる。
例えば、アイドルの写真集などが出るときにサイン会・握手会が開催される。
これは、だいたい「特定のお店でその商品を買う」→「イベント参加の整理券を受け取る権利発生」
という流れになるわけだが、これなどはまさに「存在」にカネを払っているようなものである。
アニメ・マンガ:作品 / アイドル:存在
アニメ・マンガ - 作品 - 過去の作品に遡ることが比較的可能
アイドル - 存在 - 現前性の強いもの。
例
アニメ:
「ファーストガンダムを見てない奴はダメだよね」といった会話が成り立り得る
アイドル:
「80年代の松田聖子のコンサートを見てない奴はアイドルを語るな」
といった言説は成り立ち難いのではないか?
→アイドルは「個々の存在」がより重要な意味を持つので
「個々のアイドルの歴史」はあるが「アイドル界全体の歴史」といった視点をファンは持ちにくい。
これが、アイドル論というものがやりにくい原因なのかもしれない。<モーニング娘。の歴史性>
10年も続いているグループなので歴史性が発生している。
宮藤官九郎のモーヲタ批判
- お悩み837
宮藤さん、こんにちは!毎回この始まりかたでいい加減、僕自身飽きてきましたけど、どうですか?
本題です。聞いてください。
僕は歌手のaikoさんが好きです。歌は勿論、素朴な外見も好きです。
でも、友人の評価はイマイチです。←ミスチルより引用。
僕の周りでは、特にモー娘。や、あややなどのアイドル系が人気です。
しかし!僕に言わせれば、それらは歌であって歌で無い。訳ですよ。
コレについてクンニーはどう思いますか?
- お答え
これは僕の偏見ですが
モー娘やあややは何にもしないでイイ気持ちになりたい男
つまり弱っている男の味方です。
元気な女の子を見てるだけで元気になれるなら
勝手に元気になるがいいさ。
くんにーは弱ってないし
aikoさんのほうがイマジネーションをかき立てるので好感持てます。
それよりなにより問題は「モー娘。」の「。」であります。
誰がどういう理由で付けた「。」かは知りませんが、
批判する文章でも、ちゃんと「。」が付いてることに苛立ちを覚えます。
このやっかいな「。」に抵抗したいと思うのはくんにーだけなのか!
プリンスを誰もあのややこしい記号で呼ばなかったように
みんなであの「。」を無視するのだ(官)
"宮藤官九郎の小部屋 第47回 その1"
元気な女の子を見てるだけで元気になれるなら
勝手に元気になるがいいさ!!!!!!!!!!
ということで私の発表は以上です。
−−−−−−−−−−−−−終−−−−−−−−−−−−−−
例えばアイドルは透明少女
俺には見えるぞ。俺には見えるぞ。俺には見えるぞ。
全てが透き通って見えるぞ。
例えばあの娘は・・・
俺は思うに、例えばあの娘は透明少女
ナンバーガール「透明少女」『シブヤROCKTRANSFORMED状態』
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ただのアイドル語りはフェミニズムに簡単に崩されてしまう
したがって脂肪をそぎ落としたほっそりした肢体を目指すことは、
母性のような伝統的な女役割の否定、もしくはそこからの自由への渇望という象徴的意味を持つ。
(中略)
細さへの渇望は、意識的にせよ無意識的にせよ、
ジェンダー規範の押しつけに対する抵抗のサインという側面を持つ。
しかし、一方で細いからだには、脆さや無力さ、かよわさといったイメージもつきまとう。
(荻野美穂 "美と健康という病――ジェンダーと身体管理のオブセッション"
『ジェンダー化される身体』2002,p360)
女性アイドルが獲得している(しようとしている)スリムな身体は
非常に多義的なものである。
女性アイドルは基本的には<細さ=脆さ=無力さ=か弱さ=若さ=美しさ>を
セールスポイントにしている。
だから、女性アイドルのスリムな身体中の「伝統的な女役割の否定」「自由への渇望」
といった面は見えにくくなっているのではないか?
若しくは、そのようなものは、当のアイドル自身も意識していないだろう。
アイドル産業は「スリムな身体」に対して
「男に都合の良い解釈」のみが表に出すぎているのではないか?
アイドルを語ることは己の欲望について語ってしまうということに等しい。
それはある種汚い欲望である。
そんなものを抱えているのに、批評も何もないだろう。
つまり、これがアイドルを語る上でも基本的な、そして根本的な足枷になる。
自らが搾取していること。自らが搾取していること。自らが搾取していること。
ドブネズミの男が「美しさを引き受けた女性」を通じて美しさを享受すること
だがフランス革命と工業化の開始以降、男の世界の権力が
王侯貴族からビジネスマンや専門家集団に移行するとともに、
その服装も仕事の遂行の邪魔にならないような地味で合理的で、
個性や変化にとぼしいスーツ型に急速に統一されていった。
男たちは、身体的魅力以外のものに勝負をかけることを選んだのだ。
いわゆる男のドブネズミ化のはじまりであり、
それはすなわち男の身体の隠蔽、ひいては身体意識の消去をも意味していた。
逆に、美しさとその維持にエネルギーを注ぐことは
もっぱら女の仕事と見なされるようになり、
女はそれまでのように働き者だとか手に技術があるとかいうことよりも、
階級にかかわりなく画一的に外見でその価値が決められるようになった。
男は美しさから疎外された。
そして、男のアイドルオタクが女性アイドルを通じて美しさを手に入れようとすること。
だが、これだけではジャニーズや韓流スターや○○王子
といった現象を説明することができない。
「美しさ」を一手に引き受けてしまった<女性>というものに対しての解放として
自らが「見る主体」となること。それがジャニーズや韓流スターや○○王子であろうか?
ただ、現在の時点では、
「ドブネズミ化されている」感覚の男が多数派で
「性的魅力や美しさを担う男」というのは少数派という気がする。
何故、キモイ奴はジャニーズのようなカッコイイ男を目指さずにアイドルに向かうのか?
「キモイ→カッコイイ男」は努力目標であり
「キモイ→少女になりたい」は不可能性である。
それがポイントなのか?
データベース化された中において物語ること
遠くからやってきた知らせは
――それが異国という空間的なものであれ、伝承という時間的なものであれ――
ある権威をほしいままにしていて、
たとえその真偽のほどが検証されなくても十分に通用していた。
ところが、情報のほうは、すみやかに追跡して確かめられうることを要求する。
それはなによりもまず「それ自体で理解できる」ものとして現れることが必要である。
(中略)
毎朝世界中のニュースがぼくらに伝えられる。にもかかわらず注目すべきはなしには乏しい。
それは、ぼくらのもとにとどく事件はすべて、すでにさまざまな説明がくわえられているからだ。
言いかえれば、発生する事件はもはや何ひとつ物語の役には立たず、
ほとんどすべてが情報に役立つものばかりなのだ。
(ヴァルター・ベンヤミン,高木久雄(訳)
"物語作者"『ヴァルター・ベンヤミン著作集(7)文学の危機』)
アイドルに関する芸能ニュースは情報である。
しかし、必要なのはアイドルの「物語り」である。
おなじころ、すくなくとも私におとらず退屈な男、ピエール・ルヴェルディが、
こんなことを書いていた。
「イメージは精神の純粋な創造物である。
それは直喩から生まれることはできず、
多かれ少なかれたがいにへだたった二つの現実の接近から生まれる。
接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であればあるほど、
イメージはいっそう強まり ― いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになるだろう・・・・・・云々。」
これらの言葉は、門外漢には謎めいたものではあろうが、
すこぶる啓示にとんでおり、私は長いことこれについて熟考をめぐらした。
だがイメージは私からのがれさるばかりだった。
ハロプロヲタにヴィジュアル系ファン(バンギャ)の動きを見てもらう――ヲタ芸について
以下は2007年8月14日に某所で開催された
「ダブルユーのおそうしき(第1回モーニング娘。学会)」において
個人的な興味で無理やりちょっと時間をとっていただいた話題である。
- 素材
人格ラヂオ『バンギャルラヂオシアタァ』より"バンギャル症候群" "溺愛"
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以下は私が記憶している各人の感想。
・(バンギャは)振りが皆揃ってて羨ましい。
ハロプロの方は各グループが勝手にやってる感じがある(らしい)
バンギャは会場全体の一体感 / ヲタ芸は自己陶酔
・Perfumeは前の方は踊って、後ろの方は腕を組んで見てる感じ
たまに後ろの人が「踊ってくるわ」って言って前に来る。
・バンギャとハロプロヲタの場合、女/男という点で随分違う(という印象)
バンギャの場合、アーティストがいないと成り立たない("咲く""捧げ"等の行為が)
ヲタ芸はアーティストがいなくても成り立つ(というある意味で侮辱行為でもある)
・ロックライブにおける(サマソニを例に)
1:アーティスト主体で盛り上げ、客が乗っかる
2:客側が積極的に、客側が始点となりアーティストに対してコール等をする
ヲタ芸はその段階を超えたものとしてある。
・ヒップホップ系の乗り方について。
・ヲタ芸発生秘話
ハロプロが長らくコンサートを行なわない時期があった(らしい)
その時に「じゃあオレたちでコンサートをやろう」となって自主的にイベントが開かれた。
会場を借りて、映像や曲を流しつつ、ハロプロヲタが盛り上がる。
その際に色んな人が持ち寄った芸が、後にヲタ芸と言われるものになった(らしい)
(つまり、ヲタ芸というのは発生した時からアーティスト・楽曲からは独立したものとして存在したみたいだ)
アーティストの振りを真似したりするのは、どんなジャンルの音楽でもよくあることだが
ヲタ芸がその中でも際立った「異様さ」を感じるのは
その踊りがアーティスト・楽曲依存性とは無縁であり、ヲタの独自性が見えるからである。
ヲタは演者側になろうとしているのだ。
それが、ヲタ芸を見て「ウザイ。お前の芸を見にきたわけじゃねーんだよ!」
という反発の原因でもある。