劇団☆A・P・B-Tokyo 実験室公演Vol,3『寺山修司コレクション』

とき:2008-09-06
ばしょ:阿佐ヶ谷Loft A
公式サイト:http://www.h3.dion.ne.jp/~apbtokyo/

ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかけて
完全な死体になるのである
そのときには
できるだけ新しい靴下をはいていることにしよう
零を発見した
古代インドのことでも思いうかべて


「完全な」ものなど存在しないのさ


(『寺山修司全詩歌句』口絵より,1986)


劇団☆A・P・B-Tokyoの公演は初めて観させて頂いたが、
終始観客を挑発していてとても刺激的であった。


「開演ブザー→開幕」の流れを3度も繰り返して
「さあ、4度目の正直だ」と気合を入れてみたら、観客席から演劇なるものが開始される。


そして・・・・・・


やはり止めよう。
この公演のあらすじを語るのはとても困難を伴う。
なぜならこの日行なわれたことは演劇についての演劇
つまりメタ演劇的であったからである。


そしてこれは、観客とは何かを問う演劇でもあった。
私を含めこの日集まった観客が「メタ観客」とでも形容される存在にならざるを得ないので
あらすじを追うという行為自体が意味を成さないのだ。
寺山修司が言うところの半世界
(私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ)
を体現させられた気分である。
この日観客として来た私は
包帯を顔に巻いたり、オモチャのヘビを顔面に当てられたり、霧吹きで水をかけられたりした。
「観客席は安全ではない」という言葉を身を持って体験することになったわけである。

ぼくはアイデンティティを捜すという形の人間観、
あるいは、そういう形で成立するドラマツルギーを信じていない。
それは結局物語志向であって、近代の人間観を越えていないと思うんです。
それに比べれば、機械にはアイデンティティがない、
というところに興味がある。


寺山修司『臓器交換序説』1992)


もう一つ、この公演についての語りを阻む理由がある。
それは劇中に出てきた「プロの観客」なる存在だ。
「プロの観客」は、日々つまらない喜劇で笑い気持ちのよい拍手をして僅かばかりの収入を得ているらしい。
そしてついに「プロの観客」は「上演されていない劇」の批評をし始めてしまうのである。
「上演されていない劇」の批評が成立するということは
「上演されていない劇」の観客であることも成立し得るのではないか。
では「上演されていない劇」の役者はどこに存在しているのだろうか。


私が今書いている劇は本当に存在したのであろうか。

寺山さんは自身の過去を次々と作り変えて物語化してきた。
どれが本当でどれがウソだかではない。どれも本当でどれもがウソなのだ


(萩原朔美「フィクションとしての寺山修司寺山修司悲しき口笛』ハルキ文庫,2000)

寺山はよく
「ホントよりもウソのほうが人間的真実なのだ」
と口にした。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは存在しえないからだ。
私はときどきそういう寺山の生き方を批判した。
「私は泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒れるような、そんなふうに自然に生きたい」
だが寺山は、そんなとき必ず反論した。
「人間だからこそ、泣きたいときに笑い顔をつくって、
怒りたいときにじっと我慢して歯を食いしばって押し隠すこともできるんじゃない」
それが寺山の言い分だった。


(田中未知『寺山修司と生きて』新書館,2007)

子供のころから「家なき子」でしたから、現実は「世を忍ぶ仮の姿」で、
もう一つの生きられる世界、劇場的な世界がある筈と思っていたのでしょう。


(唐十郎高橋睦郎・竹内健・寺山修司「座談会 本質論的前衛演劇論」『三田文学』1968,p10)


「フィクションに現実が侵入する」のではない。
「現実にフィクションが侵入する」のである。


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とはいえ、お金を払って「観客」として来てしまったので感想を書くわけである。
「ペンキ屋の役を配役されたペンキ屋」として登場した点滅さんの舞踏や
マメ山田さんのお姿を拝見できたのが、本当に嬉しかった。


・点滅 公式サイトhttp://www.geocities.jp/temmetsu/
マメ山田 公式サイトhttp://hccweb5.bai.ne.jp/~hdl03601/


また、最後に寺山の言葉をセリフとして叫んでいくシーンが良かった。
この日のために暇を見つけては寺山の詩を流し読んでいたのが役立った。
「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」



ラジオドラマ『箱』

劇中マメ山田さんが「世界一小さい劇場」=ダンボール箱に入り、演劇を見るというシーンがあり
寺山修司のラジオドラマ「箱」を思い出した。
ラジオドラマ「箱」では現実逃避のために「箱」の中に入って生活する人々が急増するという筋であったが
マメ山田さんが入ったダンボール箱は「演劇を見ている観客」のパロディとして箱が使用されていた。


また、箱は観客の「匿名性」や「自分を守る殻」の象徴でもあるだろう。
アービンジャー インスティチュート『自分の小さな「箱」から脱出する方法』においては
「他者を物として見ている状態」が「箱に入った状態」だとされている。
「観客」の特権性とはまさに舞台上の役者を「物」として見られることにある、
とするのはいささか皮肉が過ぎるであろうか。


今回の劇に参加して「自己啓発セミナー的」もしくは「TV版エヴァンゲリオンの最終回的」であると感じた。
それは観客の「箱」を壊すようにこの劇が構成されているからである。

寺山修司ラジオ・ドラマCD「犬神歩き」「箱」

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自分の小さな「箱」から脱出する方法

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ラジオドラマ『大礼服』「誰も死のうとしなくなっちゃいましたよ」

さて、昨日の劇とは全く関係ない話をしよう。
なぜなら、昨日の劇は存在していないのだから、関係ない話をしても問題ないからだ。


ラジオドラマ『大礼服』のあらすじは以下のとおりだ。


現実にはいない大礼服の男。その男により社会秩序に異変がもたらされる。
町の病人は治ろうとせずに死のうとばかりする。
幸福な家庭の幸福なパパが家出してしまう。
子供たちは地理の時間に地球儀に出ていない島のことばかり話し出し
みんな夢ばかり見て、朝になっても起きようとしない始末。


秩序を守るために刑事は立ち上がる。

「大礼服の男に、人間生活のすばらしさを嫌というほど思い知らせて、
あの男がもう何者にも近寄れないようにしてしまうのだ。」


刑事の作戦によって見事、大礼服の男は立ち去る。
その証拠にある人はこう語る。

「誰も死のうとしなくなっちゃいましたよ」

「誰も死のうとしなくなる」ことは喜ばしいことのはずである。
しかし、このドラマを通して聴いた者はこの言葉にそれほど肯定的な意味を見出すことは出来ないだろう。
それは続く言葉とセットになっているからだ。

「誰も夢をみなくなりました」


そう、このドラマでは「誰も死のうとしない」=「誰も夢をみない」という等式になっているのだ。
生きることは夢を見ることなのか。死ぬことは夢を見ることなのか。いったいどちらなのだ。

寺山修司ラジオ・ドラマCD「鳥籠になった男」「大礼服」

寺山修司ラジオ・ドラマCD「鳥籠になった男」「大礼服」

私は、一生かくれんぼの鬼である、
という幻想から、何歳になったらまぬがれることが出来るのであろうか?


(寺山修司『誰か故郷を想はざる』角川文庫,2005)