誰もいない冬の図書室で無口な彼女とCoccoの話を

うじ虫は日光が嫌いだ。


彼女はいつも地味な色の地味な装飾のバックを持っていた。
だが、今日は珍しく違った。ちょっとファンシーでファンキーなデザインだ。
「その、バックかわいいですね」そう言うと、彼女は躊躇いがちにこう返した。
Coccoって知ってますか?」


あーぁ、やっぱりだ。
俺のメンヘルレーダーは彼女と会う度にビンビンだったわけだが
その勘は間違ってなかった。


彼女のCoccoライブグッズであるバックを種にしてCoccoトークに華が咲く。
「紅白出るって噂はガセだったみたいですね」「私はファーストアルバムが好きですけど」
彼女は能登麻美子のようなウィスパーボイスなので少々聞き取りづらかったが
「Pardon?」と聞き返すのは彼女に悪い気がしたので止めておいた。
私は、音楽性では少し異なるかもしれないが、Coccoの系譜だと思われるfra-foa三上ちさこ
更に、鬼束ちひろsalyu湯川潮音の話題まで沈底していこうと思ったが
彼女は余りそれを望んでいるようには見えなかったので止めておいた。
どうでもいいことだが、彼女のメガネはメガネというより
「眼鏡」と書いて<がんきょう>と読みたくなるぐらい、昨今のオシャレメガネとは一線を画した代物である。




会話が自然と止まる。彼女は手に持っていた小説を読み始める。
僕も手に持っている本を読み始める。
静寂が図書室を支配した。外はビュゥービュゥーと風が吹き荒れて、でも仄かに日差しが眩しかった。


うじ虫は日光が嫌いだ。
いつの日か、うじ虫は美しいクロバエに成って、甘い死体の近くでブンブン飛び回る。



でもCoccoを聴いてるからって、それだけで特権的に見てはいけないよね

以前、某アーティストの歌詞の盗作疑惑が話題になっていたとき
その盗用元?の中にCoccofra-foaの名前があって、失笑した後に少し複雑な気持ちになった。
世間の噂によれば、その某有名アーティストは
ある層の方々にはとても「共感できる歌詞」として認知されているらしい。


私はCoccoを好きだという人間を無条件に肯定してしまいがちで
しかも、その某有名アーティストを好きだという人間を無条件に否定してしまいがちである。


確かに、某有名アーティストはいわゆるパクリなのかもしれない。
だが、誰かにとっての「共感が得られる・癒しのツール」になっているという点においては
Coccoも某有名アーティストも等価な存在なのではなかろうか。


だから、Coccoを聴いていようが、某有名アーティストを聴いていようが
それだけで、その人間に何らかの価値判断を下してしまうことに関して
少しだけ注意してみようと思った。



Coccoは<女>の聴くものなのか?

以前「Coccoって<女>が聴くもの」というようなことを言われたことがある。
これは推測だが、その人はCoccoが「<男>には理解できない<女の情念>」
のようなものを表現していると感じていて
「だから<男>がCoccoに感情移入するのはおかしい」という意味で
上記の発言をしたのではなかろうか。
(実際には男性リスナーもいるだろうし、Coccoを<女の情念>で片付けるのは間違いだろう)


ただ「Coccoを<女>のものにしたい」という気持ちは解らなくもない。
<男>がそこに参入するということは、楽園に土足で踏み込むように感じられることもあるのだろう。

完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば
男の観念のなかにしか存在し得ないであろう。
そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、
観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。
澁澤龍彦『少女コレクション序説』)

少女の純潔さを重んじるが故、穢れを知らぬ幼年期に定着させる空想は、
古から多くの芸術を生み出しました。
しかしながらその背後には常に、男性の女性への畏れと憧れ、そして支配欲が
コンプレックスとして存在していた
嶽本野ばら「INNOCENCE-女子という不条理」エコールプログラムパンフレット)

<女>を愛でる<男>というありがちなパターンに陥るのは避けたいかも。


ただし、<女の情念>というのは実体ではない(と思う)

ジェンダーアイデンティティは存在しないといったほうがよいだろう。
あるのはジェンダーを描写するためのスケジュールだけである
(E.ゴッフマン (著), 石黒 毅 (翻訳)『行為と演技―日常生活における自己呈示』)

Coccoを好き>になるような人?

私は<Coccoが好きな人>に特別なコードを付与させてしまいがちである。
しかし、ある一部の人には<Coccoが好きな人>に特別な何かを見てしまう気持ちが
わかっていただけるのではないかと思う。


まぁCoccoに限らず、
何かを好きだと言うことは、ある立場や価値観を表明してしまうことに繋がるのだろう。

順番は?本当は順番なんてない

・ある価値観を明確に自覚→<Cocco好きになる>→他者にCocco好きだと言う→価値観の表示


・<Cocco好きになる>→他者にCocco好きだと言う→結果的にある価値観を表示することになった


・<Cocco好き>と表示することで得られる他者のある評価を表示したい
→他者にCocco好きだと言う→他者に特定の自己呈示をすることに成功する


Cocco好き」の立場を表明して、それに自尊心を込めている場合は

彼女がCocco好きであることを殊更にディスプレイしたいと望んだ時は
喜んでそれに応じようと思う。
逆に彼女がCocco好きであることを隠したいのであれば、何も言うまい。