アイドルの「写真集」は形式化されているのか。男の欲望や理想を具現化したものなのか。

id:eal様とお話させて頂いて、印象に残った箇所の一つ。
確かに「写真集」という形式においては
「理想の女性像の雛形」の類型に、かっちりはめられた写真や構成が採用されやすいのかもしれない。

ハロー!プロジェクト オフィシャルショップ」のセット販売の写真の形式性

eal様のご案内で、生まれて初めて
ハロー!プロジェクト オフィシャルショップ」に入りました。
店内一面にハロプロの方々の写真が貼られていて、
その中から自分の気に入った写真をメモして購入するというものでしたが、


気になったのが、4枚セットという形で売られてる写真のポーズ。
4枚セット形式における、各メンバーの写真のポーズがほとんど類似のパターンで構成されてた点です。


・「目の下に両手をあてて、『え〜ん』と泣いているようなポーズ」
・「頭の上にげんこつを2つ作って、『プンプン』と怒っているようなポーズ」


特に上記2つのポーズなどは解りやすいのではないか思います。
多分、カメラマン等がそういうポーズをとるように指示したのでしょうが、
あの店内ではけっこうな比率で目に付きました。


ハロー!プロジェクト オフィシャルショップ」は
「男が喜びそうなポーズ」一覧を陳列したデータベースなのでしょうか?


後は、ポーズ別、髪型別、服装別などで
アイドル写真を検索できるシステムをハロプロショップがつくりされすれば
立派な「データベース消費」の出来上がりですね。


ハロプロショップの写真番号の先頭2桁が各メンバーの個別認識の番号になっているあのシステムは
まさに、図書館の請求記号と同じ方式ですもん。
だから、ハロプロショップの店員は
「先頭2桁が43だからこの番号は辻ちゃんの写真」*1みたいに記憶してるはずです。

「素人」がプロのカメラマンに写真を撮られるということ。

「素人モデル」や「素人ヌード」というものがありますが
特に「素人ヌード」の体験者のインタビューなどを読むと
よくでてくる言い回し「(この写真は)私じゃないみたい」というアレ。


もちろん、プロのカメラマンや照明スタッフの技術的な面が
大きく作用しているだけの話なのですが、
それと同時に、写真をとられた女の子である<私>が
<「理想の美しい女性像の型」に、かっちりとはめこまれた>
ということを表現しているのではないか、などと思いました。


フェミニズム的に語れば、<男が押し付ける型にはめこまれる不快感>なのですが
もし、<男が押し付ける型>が社会的に価値があるものだという前提が存在するのであれば、
その<型>にはまることが、<女の価値である>と信じる女性がいてもおかしくはない。


ただ、女が女のために撮られる(撮る)写真というものがあると仮定するならば
それはまた違う話になってしまいますけど。

そうすると、グラビアアイドルとは何なのだろう?

無名少女と有名タレントをまったく等価なものとして、
つまり(語の真の意味で)裸の女として見るグラビアの創出―それこそ今日的な意味での
"グラビアアイドル"誕生(!)の歴史的瞬間に他ならない。


中森明夫篠山紀信論」『クイック・ジャパン (Vol.68)特集「グラビアアイドル」』p61)

このように中森氏は書いているが
多分「裸の女として見ているような気にさせる・勘違いする」と言った方が近いのではないだろうか。


「裸の女」など存在しないのだ。

*1:これは例です