アイドルの写真や情報を収集するボクと宮崎勤氏の不毛さ

Imamu2007-05-05

「GOOD ON DEMAND -Hello!Project-」

というサイトがある。http://www.god4u.jp/hello2007/index.php
トップページ上部に
あなた自身の編集する、世界で1つのオリジナルグッズをつくろう!」と書いてあり
要は、モーニング娘。その他の人々の写真を
デジタル上で購入ができて、尚且つ、アルバム製作のお手伝いまでしてくれるサービスみたいだ。


とりあえず私はBerryz工房嗣永桃子さんの写真を見ていたら、一日が終わりそうな勢いだった。
嗣永桃子さんカワユス。だから写真を使わせてください。ごめんなさい。許して。


それは置いといて、こういうサイトが存在するということは
自分でアイドルの「写真集」を作るという欲望は
割とアイドル好きな人間に共通するものなのかもしれないと感じた。


アイドルイベント等によく顔を出していた頃、
イベント参加のために一緒に並んで待っている人たちに
オレが作ったオリジナルのアイドル写真集」を散々見せられた記憶がある。


それは「商品としての写真」を繋ぎ合わせただけのものから
「撮影会」で自ら高額で高性能なカメラを用いてアイドルを撮影して
これまた高額で高性能のプリンタ等を使用して印刷した
プロ顔負けの写真集まで、様々だった。

「この写真集がオレだ!」と言った人について

自ら作成したオリジナルの写真集であるから、それに愛着を持つのは当然だろう。
だが、私がびっくりしたのは、「これはオレの生きた証」というようなことを言った方がいたことだ。


その発言を聞いたときに、彼には失礼な話だが、
宮崎勤という一人の男のことを思い浮かべてしまった。

九二年十一月十一日、第十五回公判に証人として出廷した際、ぼくは最後にこう述べた。


<(被告の)父母から聞いた話では、彼の手紙の中の一節にですが、
彼が作ったアイドルスターCM集602という同人誌を妹たちに見せて、
これをお兄ちゃんだよといってほしい、とそういう手紙を書き送っているそうです。
私たちはただCMやアニメソングを羅列した手紙に何か積極的な意味は見出せませんがしかし、
これが自分なのだという被告のことばの中にこれらのものが
被告自身の心情や人格を投影する何らかの表現であったことを見逃してほしくありません。
(中略)このような被告人のことばとならないことばを読みとっていく努力を
弁護人、検察官、裁判官、あるいは再度の精神鑑定を行なうのであれば鑑定人の方々に望みます>


(大塚英志,「宮崎勤」と「私」の不在―連続幼女誘拐殺人事件一審判決の後で,
戦後民主主義リハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか』2004,角川文庫,pp.409-410)

アイドル。キャラクター商品化への道

私が「GOOD ON DEMAND -Hello!Project-」を知ったのはid:eal様を通じてだ。
eal様はモーニング娘。はコンテンツか?といった刺激的な問題提起をしているが


「GOOD ON DEMAND -Hello!Project-」の運営会社の業務内容に
『国内外の知的財産権(著作権、商品化権等)に関わるキャラクター商品の企画・制作』
とはっきり記されている点から考えて
少なくとも、「GOOD ON DEMAND -Hello!Project-」においては
彼女たちは「キャラクター商品」として扱われているとみてよいのではないだろうか?

アイドルという情報的固有名詞の収集の根源的な不毛さ

アイドル好きな人が、
アイドルについての瑣末な情報を得ることに対して
ある種の快楽を覚えるということはよくあることだと思う。


近年は、アイドルがブログ等で日常生活を曝しているように錯覚させることが多くなってきたので
この種の快楽を得るための餌は大量にばらまかれている。


アイドルを巡る情報だけが加速度的に増加している。

彼が執着する固有名詞とはアニメのタイトルや商品名といった情報に付された記号であり、
他方、「ひとりぼっちの子」という言い方が如実に示すように
彼の体験の中で出会ったものの名に過剰なまでに無関心さを示す。
つまり、彼は情報的経験を情報的固有名詞の収集を以て語ることはできる一方で
情報化されていない体験からその固有性・個別性を引き出すことはひどく苦手なのではないのか。


大塚英志,宮崎勤と批評される「主体」,
戦後民主主義リハビリテーション―論壇でぼくは何を語ったか』2004,角川文庫,p.516)


私はアイドル情報の固有名詞を収集することは割とできるのだが
自分の身の回りの固有名詞には極度に無関心である。
自分の身の回りの固有名詞が生きていようが死んでいようが、どうでもいい。


鈴木謙介氏は『カーニヴァル化する社会』において
mixiのようなSNSを「データベース的対人関係」の可視化だとしているが(鈴木;2005;p125)
私がmixiに興味がないのは、自分の友人や知り合いのデータベースには
とことん無関心だからではないかと感じる。(もちろん私には友達が少ないという根本の理由もある)


こんな間違った思考を持っている私にとって宮崎勤は避けては通れない問題としてあらわれてくる。
もちろん、普通にオタクをやっている方々は
「幼女を殺した奴とオタクを一緒にすんな!こいつのせいでオタクが差別されるんだよ!」
と一蹴すれば充分なのだろう。それがオタク的に正しい意見だと思う。




私はあくまでも宮崎勤を自分の問題として考える。
そこにアイドルを巡る倫理がみえる気がするからである。

さて、この曲*1が正統派アイドルに似つかわしくないことは以上で明らかであろう。
しかし、これを〈自分探し〉の文脈から、
八〇年代の“アイドル”がまさにファンが自己を投影する装置として
対象を肥大化させてゆく
ことを考えるとき、非常にアイロニカルな意味合いをもつ。
祭り上げられ偶像となった〈自分〉は、一体どこへ行けばいいのか?


佳多山大地「自閉する匿名者たちの物語」;貫井徳郎『失踪症候群』1998,双葉社文庫,解説)

祭り上げられ偶像となったアイドルは一体どこへ行けばいいのか?
それはアイドルを偶像にしてしまっている人間も考えてしかるべき問題なのではないだろうか?


今更だが、これは「加護ちゃん喫煙問題」に対しての私の態度の表明でもある。

*1:引用者注:井上陽水「夢の中へ」のこと。1998年斉藤由貴によってリバイバルされた