「こりん星漫才」考

Imamu2007-05-27

2007/5/27放送。TBS「さんまのSUPERからくりTV」<さんまと美代子がゴルフ対決の罰ゲーム…こりん星漫才>


ひどい。漫才として全く成立してない。
だって、一番根本的で解りやすいツッコミ
こりん星って何やねん!!」を不問にしたまま話が展開するから。
もちろん最後までそれにはいっさい触れない。
細かいところも全部ツッコミなし。

要約
  • 1.自己紹介

「よろしくりんこだプー」

  • 2.2人が地球に来た理由

3ヶ月前から地球に来た
こりん星にある物質(お家やお城や木)の材料のお菓子
→一番の原料であるチョコレートが不足
→食いしん坊のアリさんがチョコレートを食べてしまっている
→アリさんじゃなくて「アリンコリン」
→地球でチョコレートを買う

・雨
>地球の雨は冷たい
こりん星の雨は七色に輝くふわふわのキャンディー
・リアクション
>地球の人は本気で怒ると「コラ」
こりん星では「プップクプーダンス」
(地球にいる小倉優子はかわいいという話)

地球には魔法の授業はない
「りんりんらんらんパラりんこ」
「ミーラポーマキキレーチェ」→これは無くなったものが元に戻るおまじない
→「にゃにゃーん」:(じゃあチョコレート買わなくてもいいんじゃない)
こりん星にかえる

感想

さて、これが狭義の「お笑い」ではないことは明らかだ。
実際これは罰ゲームなのだから、
こりん星漫才」は「お笑い」としては不成立の恥ずかしいものでなければならない。


細かい点に幾つか触れていく。
まず、この漫才中に出てくる「こりん星」や変なダンスに対しては
いっさいのツッコミが禁止されている。
こりん星」やその他のバカバカしいことは
あってしかるべきもの、当たり前のものとして扱われている。
世界観の前提が不問なのだ。


また「〜だプー」「〜りんこ」などの語尾や
「アリンコリン」「りんりんらんらん」などの言葉の使用。
こりん星言語では意味の明瞭さではなく、音韻的な快楽が優先される。


そして、話に全くオチがないという事実。

落語とは、落しばなし、話を落とすから落語です。
その「おとし」という言葉はなんらかの理屈で「なるほど」と合点させ、
はなしの世界から現実へひきもどす。これが「おとす」ことなのです
桂米朝『落語と私』1986,文藝春秋

逆に言えば「オチがない」ということは、
現実へ帰らせてくれないということを意味する。
いつまでも「宙吊り」のまま、イメージの中で彷徨い続けるしかない。
「現実」を一元的に見ることへの懐疑だけが残るのだ。

名づけの行為とは新しい現実のパターンの認知という構えが含まれている。
現実の或る部分に対する見取図が拡大される場合に、
「意味の横すべり」或いは「暗喩の転移」という現象が起きる
山口昌男『文化と両義性』1975,岩波書店 哲学叢書)

『マネージャーさんに「そろそろこりん星を爆発させたい」って言われました』


最近、小倉優子がしきにネタにしていること。
『「こりん星を爆発させたい」ってマネージャーから言われている』


このネタがネタとして成立するには
→<こりん星とか言ってるのはネタ>
→<年とったからブリッコキャラは限界だし、もうそのネタ飽きちゃった>
などと「みんなが思っている」ことが前提になければいけない。


小倉優子
こりん星はネタだとみんなが思っている」
こりん星というネタにみんな飽きている」
「年とってきてブリッコキャラは限界だと、みんなが思っている」
という認識を前提としたネタを披露しているのだ。


{{もう「こりん星」とか訳解らんないネタは止めて、さっさとキャラ変えたら?}}




だが、しかし、
明日になれば別番組で彼女は臆面もなく『〜だりんこ☆』と、のたまう。
何故、彼女は周りのみんながネタだと解っていて、しかも飽きられたネタをやり続けるのだろうか?

喜劇的人物なるものはひとつのタイプである。
これを逆にいえば、或るタイプに類似しているものは多少とも喜劇味を有する
アンリ・ベルクソン,林達夫(訳)『笑い』2003,岩波書店


小倉優子の「グロテスクさ」は最高に素敵なもの。

「醜さ」を無視する「美しさ」は虚構であり、「美しさ」を忘れた「醜さ」は邪悪
宋文洲宋文洲の傍目八目』2007,日経BP社)


道化は何にでもなれる、空っぽの存在。小倉優子の中心は空虚である。

ある人々には、道化は人間が本当は不合理な土くれであることを示す媒体である。
山口昌男『道化的世界』1986,ちくま文庫

道化を通して人は、捨てられ、忘れられ、無価値とされて来たものに意味を見出す術を学ぶ
(同上)

もちろん「もうそのキャラを止めたい」と思っているのなら「止める」のは自由だと思う。
小倉優子に頼るのは止めよう。もう「人間は不合理な土くれ」だってことは解った。


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「年相応」などという言葉があるように
「年齢に応じた振る舞い」というものは存在するだろう。
もちろん「年齢に応じて振る舞い方を変化させる」ことは良いことだと思う。
俗に言う「カッコイイ年の取り方」ってやつだ。


だが「舞台上での役柄」に対して厳密にこれを守る必要はあるのだろうか?
少しだけ、ほんの少しだけ許容範囲を広げてはもらえないか。
きちんと「稽古」を積んで、パフォーマンスとして見れる範囲なら良いではないか。

女方というのは、立役・敵役・実悪・花車方・親仁方・道外方と並ぶ
歌舞伎の役柄の称である。
花車方の役柄が中年女性以上、老け役までを演じる役柄の名であるのに対して、
傾城・姫・娘などの役を相当するのが若女方である。


だから、この名称は役者の地位にも年齢にも関係はない。
六十に成っても一六七の娘の役を勤むる」のが若女方の心がけなのであり


服部幸雄『歌舞伎のキーワード』-「女方女形)」1989,岩波新書

元禄期の名女方初代芳沢あやめ(一六七三-一七二九)は
『あやめぐさ』(女方芸を確立したあやめの芸談集。『役者論語』に収録)に次のように言う。

女方といふもの、たとへ四十すぎても若女方という名有。
たゞ女形とばかりもいうべきを、『若』という字のそはりたるにて、
花やかなる心のぬけぬやうにすべし。
わづかなる事ながら、この『若』という字、女形の大事の文字と心得よ、と
稽古の人へ申されしを聞き侍りし」

(同上)


《ブリッコというものたとへ四十すぎてもブリッコキャラという名有》
ロリィタというものたとへ四十すぎてもロリィタキャラという名有》



(関連する以前の日記)

・フジテレビ「不思議の国のアリス」見た&見て妄想迷走;http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070105
こりん星が消滅しても小倉優子が幸せになれるならそれでよい;http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20060824/p1
ザ・チーター 小倉優子大号泣SP;http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20060531/p1
こりん星はコミュニケーションツール;http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20051121/p1