小倉優子とスザンヌで妄想紙芝居。或は魔法使いマシュマロ系アイドルについて

Imamu2008-03-02



●朗らかに絶望。爽やかに空しい、イントロンとくらげの骨の日の日記。


口に出してウキウキする言葉といえば
「猟奇殺人」「腐乱死体」「歪んだ(ひずんだ)ギター」「甘いスイーツ」
そして「百合ップル」であろう。
(次いで「鱗翅目」「カルバニ腐食」「腐熟難渋」「顔面裂創」「心因性難聴」も挙げられる)


現代用語の基礎知識」の2007年度版においても採用されているわけだが
とにかく百合ップルという言葉、「プル」の語感がなんともキュート♪(・∀・)


ベタであるが
中原麻衣×清水愛」「堀江由衣×田村ゆかり」「井ノ上奈々×酒井香奈子」「川澄綾子×能登麻美子
あたりが好きスキー!ー!ー!
ちなみに最近気になる声優さんは喜多村英梨さんです!!!(・◇・)


喜多村英梨さんは声優界のしょこたん!!!(すげー適当)

こはるびよりオリジナルサウンドトラック

こはるびよりオリジナルサウンドトラック

こはるびよりのOPでキタエリさんこと喜多村英梨さんが歌ってる
「エプロンだけは取らないで!」 って曲が好き。
一時期、この曲とカイリー・ミノーグの「Wow」を繰り返し聴いてました。
X-スペシャル・エディション(DVD付)

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キタエリ,しょこたん:女性に萌える女性を見て萌える

しょこたんこと中川翔子さんは、よく同業者(女性アイドル)に会うと
狂喜乱舞して萌えているわけだが(更に、その状況を見て、私は喜ぶわけだが)
喜多村英梨さんの同業者(女性声優)に対しての狂気的な萌えっぷりは
聴いているこちらが恥ずかしくなるくらいに強烈ー(ToT)


両者とも、その文脈(女性アイドル文化、女性声優文化)を
オタク的目線(男性オタク的)で見る能力があり
尚且つ、自らもその中にいるという点は面白い。
そういえば、二人ともマンガ描くのが上手い。
メタボリック的であることを二人とも隠さない。
(というか、現代の女性に求められているスリムさの基準のハードルが余りにも高いだけなのだろう)

彼女たちは性的なものをオタク的に受け入れるとき、転倒がある。
オタク女性というのは、自らがオタクというだけでなく、
オタクに性的に消費されるオタク的に消費される性的対象であるということだ。


この転倒では、自らのセクシャリティが隠されている。
そして隠されている故に性的な魅力があるのである。
いわば、「男装」によって女性的なものを隠している故に、エロティックである、ということだ。


"なぜショコタン(中川翔子)はエロいのか"
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080206#p1

これすげーわかるわ。(みんながそう思ってるかは知らないけど)
あと、しょこたんキタエリさんが欲望している様子を媒介にして自分も欲望するって感じかな。
そうすることで自分が欲望主体であることを隠蔽できるからね。



千葉と熊本:ゆるふわゆるふわ

さて、アイドリング5号、滝口ミラさんもR-1用のネタにも出ているように
小倉優子さんとスザンヌさんの仲がよい。
(両者はローカル番組「九州青春銀行」で共演しているのだ。)

痛いニュース(ノ∀`)
女子高生アイドル・滝口ミラ、過激な芸能人の悪口ネタを誤ってブログに投稿→炎上で本人謝罪

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1082910.html

もふもふ♪♪♪
これは鼻血ブーです○∞★£△%
鼻血ブーなのでございます!!(◎o◎)!!
つまり、小倉優子さんとスザンヌさんの仲がよいということが
私にとっては唯一の救いですo(^-^)o


ただ、滝口ミラさんもネタにしているように
二人のキャラ提示が似ているので、どっちが責めでどっちが受けなのか解らない(´;ω;`)
世の中の事象を全て、責めと受けに変換できる伝説の腐女子デカに頼んで決めてもらおうかしら(^○^)


否、私は「受け×受け」だったら素敵だと思うのですが、いかがでしょうか?



「魔法使いマシュマロ系アイドル」早美あいについて

●舞台の上に振る雪は<光の欠片>なのか<ただの紙くず>なのか?
自称「魔法使いマシュマロ系アイドル」の早美あいの話をしよう。


クイズ!ヘキサゴンII」で島田紳助氏に「小倉優子のバッタモン」と言われてしまい
しかも「バッタモン」と言われることでしか、立ち位置を確保できないという悲惨さ。


確かに早美あいさんは安易だったかもしれない。
そして早美あいを断罪することは簡単だ。
しかしそれでも早美あいを容易く否定することで何か失うものがある気がしてしまう。


早美あいのキャラを(その完成度の低さを含め)「痛い」と言ってしまうとき、
「痛い」と断定する者は自らを「痛くない普通の人間」という位置に安住させてしまう。
それが私には耐えられないのである。


散々「おまえなんか死ね」と言われ続けて育ってきたので
私は早美あいを断罪できない。皆は「痛い」「痛い」と笑えばいいと思う。


「器用」は「つくる」という意志にたやすく従属する。
「不器用」は「つくり」の精確さから外れることで「つくる」行為に還元されない
モノとの多様な関係性を現す可能性を秘めている。


早美あいの「痛さ」を認めた上で、それでも早美あいの「痛さ」に向き合っておきたい。
それにしても、早美あいが「痛い」のは解るが、では「痛くない」人間とは誰のことなのだろう。


天然ボケと不思議ちゃん

天然ボケや不思議ちゃんというのは、ツッコミという存在がいてはじめて成立するものではないか。
天然ボケの人は自分が積極的にボケようという意志がないのに
その振る舞いを「ボケ」として周囲に認知される。
他人が真面目にやっていることを外在的な位置から見るという感覚がこの種の「笑い」を生む。



さんまのSUPERからくりTV」のレギュラー陣

さんまのSUPERからくりTV」のレギュラー陣には
中村玉緒浅田美代子西村知美などが「天然ボケ」として配置されている。
小倉優子は2007年10月頃から準レギュラーからレギュラーへ昇格している。



中村玉緒浅田美代子西村知美さんなどは番組中で
突飛なことを言い出したり、勘違いによる失言をしたりする。
それを明石家さんまさんがツッコムことで笑いが発生する。
彼女らは創意工夫してボケる必要はなく、真面目に応答するだけでよいのだ。



小倉優子さんの場合は少々事情が違う。
実は、小倉優子さんは上記3人ほどには突飛なことは言わない。
代わりに「突飛なキャラと設定」を事前に用意している。
そして、それを明石家さんまがイジるという形で笑いが発生する。



明石家さんまさんの「フリ」の効果

明石家さんまさんの「フリ」の効果は大まかに2種類あるように見える。
●キャラとしてのボケを促すためのフリ
→「今日はどこからきたの?」→「こりん星からです」
●キャラではなく「素」の状態を露呈させるためのフリ
→「今日はどこからきたの?」→「港区からです」→「こりん星って港区にあるの!」


明石家さんまのフリは、キャラ通りに振る舞ってもいいし、それに対応できなくてもいいのだ。
「フリ」には相手が対応できない場合も予め織り込まれている。
「キャラ通り」振る舞えないというのは一見すると「不完全・失敗」だと思われがちだが、
実際は「キャラ」に綻びが出てしまうことも「笑い」に転化できるのである。
「キャラとその綻び」というのは「迂回した形の天然ボケ」のようなものである。


従って、小倉優子さんはキャラが中途半端であることによって逆説的に
芸能界での地位を獲得していると考えることができるのではないか。



クイズ!ヘキサゴンII」と、しんす系アイドル

「魔法使いマシュマロ系アイドル」早美あいは、
生真面目に「キャラ」に忠実であろうとし過ぎた点が失敗だと言えるかもしれない。
「不思議ちゃん」として完璧であればあろうとするほど、実際には笑えないのだ。
クイズ!ヘキサゴンII」では島田紳助さんは、早美あいを「キャラの完成度が低い」と評していたが
完成度云々というよりは、それを笑いに転換するのが難しく、また面倒臭いということが問題なのであろう。


真面目にやってそれが面白い解答になってしまう人(里田まい木下優樹菜スザンヌ)の方が
司会者(ツッコミ)が主導権を握って、笑いを作りやすいのだ。



ひょうきん族」と「素」が見えるキャラクター,もしくは「素」のキャラクター化

ここで、明石家さんま島田紳助両氏も出演していた
オレたちひょうきん族』のことを思い出すこともムダではないだろう。
明石家さんまブラックデビル、知っとるケ、アミダばばあパーデンネンなど
様々なキャラクターに扮して番組に登場していた。


だが、太田省一によれば、このようなキャラクターは『ひょうきん族』においては
架空の役割になりきることを目的としているものではないのだという。
むしろ重要なのは、扮装していても、どこかに「素」が見えることの方にある。

先の鶴太郎やのりおにしても、また島崎俊郎扮するアダモステにしても、
「素」をさらけ出させるように、周囲があるときは煽り、あるときははやしたてる。
その意味で『ひょうきん族』が新しかったのは、「素」が出てしまうことをあらかじめ想定して
キャラクターが成立していたということである。

太田省一『社会は笑う――ボケとツッコミの人間関係』2002,青弓社,p49)


つまり「キャラクター」の「素」を見せるという面白さを
明石家さんま島田紳助は実践として行なっていたのであり、


だからこそ、彼らは特異なキャラクターを持ったタレントに対して、
煽り、茶化して、「素」を露呈させる方法で笑いをとるのである。


(「こりん星から来てない事くらい承知してます」と発言した番組は
島田紳助が司会を務めていた「謎を解け!まさかのミステリー」という番組であり
「マネージャーさんに、そろそろ、“こりん星は爆発させたいんだけど”と言われた」と始めて発言した番組は
明石家さんまが司会を務めていた「恋のから騒ぎ」である。)


(これとは別のラインで考える必要があるのは
とんねるずと「夕やけニャンニャン
その再来としての「うたばん」での石橋貴明モーニング娘。とのやりとりであろうか。
解りやすい特徴としては「えこひいき」と「呼び捨て」)



バラドル戦国時代

「今はアイドルにもただカワイイだけではなくそれ以上の役割が求められている」
とはよく言われていることであるが、
具体的に言えば、アイドルも「お笑いの空間」に対応できなければいけないということであろう。


(実際は、アイドル女優と呼ばれる人たちにはグラビア出身のタレントに比べて「笑い」への期待は少ない。
彼女たちは本業としての女優業があるので、バラエティに適応しなければならない機会が発生しにくい。)


こういう状況においてのアイドルが売れて、
芸人と同様の方法で自ら笑いをつくるか(若槻千夏
周囲に面白がってもらえるキャラクターの魅力で勝負するしかないだろう。
(上記でみたとおりキャラが、天然か作りかというのはあまり関係ないのである)


と書いてみたが、内輪で楽しむだけでいいのであれば、秋葉原の路上でやっていればいいのかも知れない。
テレビのバラエティ番組というのは、
あるアイドルに対して好意的ではない多数の視聴者も想定して作らなければならないために
こりん星」を素直に肯定しないのである。
もしかしたら、秋葉原の路上では大量の小さな「こりん星」があるのかもしれない。


小倉優子のバラエティ出演の際のやりとりというのは
「ファン」と「アイドル」の共犯関係でつくられた想像力が
それを前提としない他者の評価に曝されなければならないときに、
どのような形になるのか、という実験なのである。


私は小倉優子が大好きなのである(結局それ)




――――――――終――――――――――――――

関連する以前の日記

●「こりん星漫才」考:http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070527/p1
さんまのSUPERからくりTVの罰ゲームとして行なわれた「こりん星漫才」について


●フジテレビ「不思議の国のアリス」見た:http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070105/p1
不思議ちゃんを集めたテレビ番組の記録。MCは小倉優子
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鳥居みゆき

●風に舞う木の葉のように歩き、死の気晴らしとしての装いの日の日記


お笑い芸人、鳥居みゆきはその特異なキャラクターとネタで注目を浴びている。
私も例に漏れず、中野小劇場で行われたライブの模様を録画して見ている。(ありがとう。中野ケーブルテレビ)

2008-01-19 - 七里の鼻の小皺:鳥居みゆきへの、走り書きのラブレター
http://d.hatena.ne.jp/nanari/20080119#p1

見事に身体を統御する演劇の力を前提としながら、そこから必然的に逸脱していく、
統御しえない身体性が現れるところに、彼女の「擬態」の美が表面化する


その演劇の成功と、演劇の綻びから覗く何かとの間の、往還の緊張だけが彼女の真実だ。

ここで、id:nanari様が鳥居みゆきの「演技性」とその「綻び」の往復を強調することは重要である。
もう、はっきりいってしまおう。


鳥居みゆき小倉優子は同じ問題を共有しているんじゃないかと。


地獄には地獄の法律がある。
錯乱には錯乱の論理がある。
こういう錯乱の論理を把握しないで、どうして狂人の論理の錯乱を笑うことができようか。
ましてかれを正気にかえすことができようか。
論理はいたるところに潜んでいる。


花田清輝「錯乱の論理」

正気も狂気も、空気中のN2やO2などと一緒に浮遊しているのである。
夜の闇の神秘と、真昼の光の中の深遠が同時に存在するのである。
沈鬱で底抜けた陽気で。狡猾で舌っ足らずで。


「素」を織り込んだキャラクター。「素」と演技の間を絶えず往復するという手法が
実は「お笑い」の文脈としては正統なものであることは「ひょうきん族」の例で確認したところである。


しかし、鳥居みゆきは、あるフィクションを実現しつつ、
フィクションの意図に反してそれを越えて出て行く驚異を持っているかのように見えてしまう。
ここで「猥褻」という言葉をあらわす英単語
(つまり、舞台の外=秩序の外)と分解できることを思いだしてもよいかもしれない。




――――――――――――――――――
しかし、「エンタの神様」に出た鳥居みゆきの姿にひどく困惑してしまったのも事実だ。


テロップという文字情報を通して、鳥居みゆきのネタを見たとき
「あのセリフは予め考えられたセリフだ」ということが余りにも素直に露呈されていて
鳥居みゆきの「白い狂気」(Cocco)が無害なものへと脱色されてしまったのではなかろうか。


お笑い空間では、逸脱の安全性は保証されている。
その安全性が「発言をそのままなぞるテロップ」によってはっきりと示されてしまったのだ。

おそらく一見自由な振る舞いを許されたボケに対し、
その自由さを最大限許容しながら、そこに「笑い」を発生させるという課題に対する一つの答えが、
なぞるテロップなのである。
ある言動を放置しながら、しかもそれをボケとして定義づけするために編み出された方法として、
なぞるテロップはある。


太田省一『社会は笑う――ボケとツッコミの人間関係』2002,青弓社,p162)


鳥居みゆきは、エンタの神様出演において、ネタのセリフをテロップでなぞられたことで
「逸脱ギリギリのスリリングなボケ」から「無害で安全なボケ」へ変換されてしまったのではなかろうか。


とにかく、鳥居みゆきの今後の動向には注目である。




――――――――終――――――――――

おまけメモ:ヒステリー,アイドル,無気味なもの

アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集

アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集

というのも、ヒステリー患者はたえず己れの不幸を反復するのだ。
それを再演するのみならず、つねにその突発をふたたび招きよせる。


(『アウラ・ヒステリカ――パリ精神病院の写真図像集』p226)

ここでシャルコー等サルペトリエール派の臨床医が見ようとしたものは、
脱性愛化された客観的なヒステリーの身体の症候、スティグマであり、
性愛的なものを見ることを否認している。
身体を限りなく物象化して見ようとする臨床医の欲望と、
自己の身体をさしだし、見せることに執拗な欲望をもつヒステリーとの共謀により
この「ショウ」が成立しているともいえる。


(『アウラ・ヒステリカ――パリ精神病院の写真図像集』p4)

・システムに依存しつつ反抗する身振り=ヒステリ
・ヒステリーの表現形式は、時代ごとの表象文化とともに変遷していく
シャルコー:身体的症状(疾病利得)
←解剖学:ありえへん
境界例心理学化された社会
解離:携帯電話


アイドルやアニメの趣味判断には、気味が悪いものを積極的に取り上げるところがありますね。
着飾ったアイドルを「可愛い」と思う判断は、「美しい」や「格好いい」と同列なんじゃなくて、
むしろ「不気味だ」という感覚に近いと思うんです。


東浩紀『不過視なものの世界』朝日新聞社,2000,p86)

フロイト「不気味なもの」(Das Unheimliche)
→普段は馴染みのあるものが抑圧を経て現れてくるもの<否定の接頭辞un->