「サブ・カルチャーとしてのV系入門」(『PLANETS Vol.4』)を読む

Imamu2008-02-10



第二次惑星開発委員会の機関誌『PLANETS Vol.4』収録の「サブ・カルチャーとしてのV系入門」を読む。
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p4.html
(写真はヴィドールのベース,ラメさん)


ということで、突然ですがヴィジュアル系脳の私が最近引っかかったものを書いておく。

KAT-TUNのLIPSという曲のPVがヴィジュアル系っぽくてつい見ちゃう

LIPS(初回限定盤)(DVD付)

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「ジャニーズ−スポーツマン臭さ=ホストっぽいヴィジュアル」


部外者(ジャニーズに詳しくない)から見ると、KAT-TUNで一番目立ってない感のある上田君が一番ヴィジュっぽい。
私はKAT-TUNデビューの頃から「上田君がヴィジュっぽい」と言い続けているが上田君ファンの人に会ったことがないので解らないです。

奈須きのこ空の境界』を読んで「ブギーポップヴィジュアル系」と勝手な解釈をする

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界』のサブタイトル「the Garden of sinners」でLUNA SEAを思い浮かべないなど無理です


奈須きのこ氏はLSB世代ですかね?(LUNA SEASOFT BALLETBUCK-TICK
私はヴィジュアル系四天王世代です。(MALICE MIZER,La'crima Christi,SHAZNA,FANATIC CRISIS)


『モラトリアム共同体としての「ヴィジュアル系」と、その虚構的性質について』感想


特に興味深かったのが『モラトリアム共同体としての「ヴィジュアル系」と、その虚構的性質について』というテキストだ。(『PLANETS Vol.4』p130-133)


『「ヴィジュアル系」とは「弱さの共同体」である。』という一文で始まるこのテキストでは
ヴィジュアル系は「90年代以降の日本のサブカルチャーの典型的な一バリエーション、
つまり記号としてのモノの寄せ集めによるジャンクな文化表現の一つのバリエーションに過ぎない
」としている。


このあまりにも解りやすい「ジャンクっぽさ」と閉鎖的雰囲気が
「コアな音楽ファン」を自称する人たちがヴィジュアル系というものを無視し、
またヴィジュアル系ファンはその「閉鎖性」それ自体をアイデンティティにしてしまう原因なのであろう。


かくいう私も中学生の頃、インディーズのヴィジュアル系のCDを買い漁っていたら
急に今まで一度も話したことがない別のクラスの女子にいきなり「CDを貸してください」と言われて
当惑しつつも、頼まれてない別のCDもおまけで貸してしまうという有り様であった。
(当時はネット通販は普及しておらず、インディーズのコアなCDを持っているというだけで「中学生的」にはステータスになり得た)


さて、「弱さの共同体」の「弱さ」とは何なのだろうか?
文章内には『虚構に対する無自覚かつ無批判な態度のことを指す』と書かれている。
雨宮処凛の例を出しつつ、
『「ヴィジュアル系」の表現は聴き手に自らの自己像に自己言及させるよりも、
もっぱらその現実から目を逸らさせる装置として機能することのほうが多いと言えるのではないか

とする認識は宮台真司の以下の言説を思い出させる。

三つ目の、異世界提示機能を要求する人たち。萩尾望都山岸凉子から、
『JUNE』とヴィジュアル系を経て、いまのゴスロリにいたる人たちね。


宮台真司,鈴木謙介,東浩紀「脱政治化から再政治化へ」
波状言論S改――社会学・メタゲーム・自由』青土社,2005,p125)


ここだけでは解り難いので説明を加えると
宮台真司は「音楽コミュニケーションの4機能」といういかにも社会システム論的な分析をしていて
呼び方はその時々で多少変化するが
「シーンメイキング機能」「関係性提示機能」「お耽美化機能」「歌謡曲的ネタ化機能」の4つを挙げている。
この中にある「お耽美化機能」というものが、上記引用中で触れられているものであり、その特徴として「没入型」「現実忘却型」が挙げられている。



さて「虚構に対する無自覚かつ無批判な態度」「没入」「現実忘却」
といった単語が出揃ったところで、改めてこの態度について考えてみたい。


以前私は大槻ケンヂとXのYOSHIKIの二人をゴシックモンスターの二大巨頭を用いて対比し、
フランケンシュタインの怪物」と「ヴァンパイア」という意識の在り様があるのではないかと考えた。

大槻ケンヂ-非モテ-フランケンシュタインの怪物/YOSHIKI-メンヘル-ヴァンパイア
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070708/p2


フランケンシュタインの怪物は自らが継ぎ接ぎだらけの醜いパッチワークであることに自覚的にならざるを得ない。
対して、ヴァンパイアは貴族主義のモンスターだ。


ヴィジュアル系前史として必ずと言ってよいほど参照されるナゴムレコード
そしてその中の代表的なアーティストである筋肉少女帯


私自身は90年代後半のヴィジュアル系ブームと思春期が重なる人間である。
だからなのであろうか?
私が「好き」なヴィジュアル系と同じく化粧してバンド活動をしている点は同じはずの筋肉少女帯はまったく別ものに感じた。
勿論、音楽性が全然違うのは言うまでもないが、意識の在り方自体が違うのではないかと思うようになり
大槻ケンヂは「メタ」で私が好きなヴィジュアル系は「ベタ」だというのが現在の私の見解である。



ヴィジュアル系を語るのは<女性>だけなのか

90年代初頭のV系の特徴としてよくあげられるのは、
郊外ヤンキー文化の影響が大きく見られるところで、
レーベルのイベントで「無敵」と書かれた旗をステージで実際にふってしまうような
ヤンキー的ベタさが当時の地方リスナーの琴線に触れたのでしょう。


(「サブ・カルチャーとしてのV系入門」『PLANETS Vol.4』p128)


ヴィジュアル系に「男らしさへの抵抗」や「逸脱としての化粧」といった
ジェンダー的な見方を採用することはそれほど難しくない。
しかし、上記引用にあるような「ヤンキー的ベタさ」がヴィジュアル系文化の中に入り込んでいる為に
ジェンダー的な逸脱」と言い切れないところがヴィジュアル系がジャンクたる所以かもしれない。


ヴィジュアル系ジェンダーの関係では、二次創作のマンガ同人誌に触れないわけにはいかないだろう。

九〇年代以降の日本の、いわゆるヴィジュアル系ロックバンドと、
やおい」が具体的に伴走関係にあることはよく知られ、
またバンドの側も少女たちの想像力を具体的に(まさにヴィジュアル的に)
取り込んでいるため、とても分かりやすい。


だが、『DMC』のクラウザーさんもまた、「化粧」によって社会からの逸脱を表象しつつ、
同時にひどくミソジニックな側面を有していることからも伺えるように、
この解釈*1は現象の一面しかとらえていない。
だが、ここにはロックが抱えこむマッチョイズムや攻撃性があり、
またそれに対する「抵抗」の多様な様式がある。


(伊藤剛801ちゃんのとなりで」『マンガは変わる――“マンガ語り”から“マンガ論”へ』p293-302)

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ


ヴィジュアル系ロックバンドの消費者は圧倒的に女性が多いので
ヴィジュアル系やおいの素材として使用されるのは当然といえば当然の成り行きであった。
(余談だが、ヴィジュアル系の大きいイベントに行くと、
女性用トイレは行列だが男性用トイレはがらんとしている、という状況がよくあり
このときばかりは「男って気楽で良かった」と思うことがある。)


この後、伊藤氏は渋谷系への言及を始める。

そして、ロックにおける「弱い男の子」像は、日本において渋谷系
イギリスにおいてはシューゲイザーというジャンルが形成されるなかで、
さらにはっきりした輪郭を持ちはじめる。

ここで、九〇年代初頭に言われた「フニャモラー」という言葉について、軽く強調しておくことにしたい。
これは、後に「渋谷系」と呼ばれるようになる一群の音楽の受容層を指すものだが、
この「フニャモラー」の系譜こそが、「801ちゃんのとなり」にいる「ぼくら」なのではないかと思うのだ。

しかし、こうしたフニャモラーの系譜は、井上らのようなヴィジュアル系へと向かう論考からは見えない場所にある。


いつも疑問に思うのが「弱い男の子」が語る音楽は「渋谷系」でヴィジュアル系を語るのは決まって「女性」というこの構図である。


ひどく個人的な問題でしかないのだが
「ヤンキー」が苦手なヴィジュアル系好きな「弱っちい男」の私はヴィジュアル系をどう語ればいいのか解らなくなるときがある。


バンドをやっている友達の「ヤンキー的な盛り上がり方」にも一歩距離を置いてしまい
かといってやおい同人誌に没頭することもできない。


思えば『デトロイト・メタル・シティ』は
カヒミ・カリィなどのオシャレ音楽を好む根岸崇一が意に反して悪魔系デスメタルバンドをするという話であった。

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

つまり「渋谷系デスメタル(パロディとして)」という対立軸が基本にありヴィジュアル系はその中では不可視なものになる。


マンガ中でベースのジャギ様がL’Arc〜en〜CielHONEYを歌ったこともあったが
この場面を見る限りでは「J-POPで売れた存在としてのラルク」という面が強調されており
ヴィジュアル系という問題は触れられない。(私はこの時以来、ジャギ様のファンである)



「現代の若者の保健行動についての一考察――不安緩和のための過剰適応」を読む

煮詰まってきてしまったので、また別の論文を参照したい。
「現代の若者の保健行動についての一考察――不安緩和のための過剰適応」という論文は
和光大学人間関係学部人間発達学科ライブページ
講義の成果と卒論集>2005年度の卒業論文から>の順番で辿ると全文PDFで公開されている。
http://www.wako.ac.jp/hattatsu/main.htm



論題タイトル名からは、どのような内容が書かれているか想像しにくいので
この論文中でジャニーズやヴィジュアル系やおい同人誌に触れている箇所を少し引用しておく。

2-3-4 少年の虚像と半虚像、そして実像の接近


数あるオタク文化の中に、「やおい」というジャンルがある(JUNE,BOYS LOVE も同じ)。
(中略)
このやおいの中に、芸能と呼ばれるジャンルがある。そう、ジャニーズ・アイドルという、
実在の人間同士の濡れ場を少女たちは堂々と描き、売り買いしている。
(中略)
しかし、そこにさほどの不自然はない。やはり驚嘆すべきは、少年たちの商品化であり、
そして半虚像<アイドル>と虚像<ヤオイ的美少年像>のグラデーションに、
実であるはずの<少年たち>が商品的側面においてではあるが、
混ざり合ってきてしまったことであるだろう。
昨今のホストブームなどはその最たるものだ。

3-1 ゴシック・ロリータスタイル


ジャニーズやおい同人誌というのがあるということは先述したが、
芸能ジャンルやおいはジャニーズだけではない。
わりと以前からあるのはビジュアル系バンドのそれである。

さて、この論文で特に興味深いのは「コミュニケーション不全症候群類型 その原因と症状」という表である。(PDFのp26-27)
詳しくはPDFの方を見ていただきたいが、表を参考にして以下に書き出してみた。

1.おたく
:生体過密からくる競争原理社会の選別
:自己の生み出す擬似現実への自我の仮託
:無関心からなる不摂生による肥満・るい痩など


2.やおい少女
:女性としての社会的性差
:自己の生み出す擬似現実(自分と異なる単一性の)世界への逃避/成熟拒否(摂食障害を含む)
:身体イメージへの意図を持つるい痩


3.汚ギャル
:生体過密からくる競争原理社会の選別
:向上心の放棄
:不摂生


4.ゴシック・ロリータ
:生体過密
:防衛反応としての生の否定(摂食障害を含む)
:身体イメージへの意図をもつるい痩


この論文は中島梓『コミュニケーション不全症候群』などの論旨を余りにも愚直に引き継いでいるので
この表の分け方に妥当性があるのか大変疑わしいのだが、
ヴィジュアル系が日本のサブカルチャーの典型的な一バリエーションであることを
示す手がかりとして見ることが出来ると思う。


そして、このような概念操作を行なうことでヴィジュアル系が「虚構であり、逃避先でしかない」のだとして
「何故、他のモノではなく、ヴィジュアル系でなければならないのか」という疑問の回答を考える上でも重要な示唆を与えてくれるだろう。

3-1-3 生の否定――入れ物としての自己の身体


元祖コミュニケーション症候群であったオタクたちは、
自分たちに適合しない現実=生体過密による競争原理社会に対して、
自分を適応するよう変化させるのではなく、代替物としての擬似現実を作り出し、
そこへ自我を仮託することで折り合いをつけたひとたちだ。


それに対してゴシック・ロリータに代表される少女たちを抑圧しているのは
生体過密そのものであり、症状は「生の否定」ということである。


しかし、いくら考えても一向に答えはでないのであった。




――――終――――――

*1:室田尚子の「少女たちの居場所さがし――ヴィジュアル・ロックと少女マンガ」という論考に見られる「男らしさへの抵抗」や「逸脱としての化粧」としてのヴィジュアル系という解釈(引用者注)