「掟ポルシェが真面目に語るゼロ年代アイドル論」を読む


・雑誌『m9(エムキュー)』所収の「掟ポルシェが真面目に語るゼロ年代アイドル論」を読んでのメモ。

m9(エムキュー) (晋遊舎ムック)

m9(エムキュー) (晋遊舎ムック)

●基本的な主旨は読売新聞のサイトにある「宇多丸×掟ポルシェ対談 完全版」に近い。

宇多丸×掟ポルシェ対談 完全版完成!
: Pop Styleブログ : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://blog.yomiuri.co.jp/popstyle/2007/10/post_ee87.html

●以下メモ

「親衛隊 ― 体育会系,喧嘩強い系」/「アキバ系 ― 文化系,草食系」


掟ポルシェ氏によれば、80年代頃にアイドルの応援形態としてあった「親衛隊」は
体育会系的な人間が中心となって構成されていたが
アイドル人気が低下した後の90年代初頭(いわゆる「アイドル冬の時代」)に残ったのは
今日「アキバ系」と呼ばれるような
文化系、草食系で喧嘩が弱そうな男子が多かったという。(本当かどうかはわからない)



モーニング娘。物語性から萌えへのシフト


今思えば「ASAYAN」は自己表現病誘発番組だったのであろうか。
さておき、この話に関しては、掟ポルシェ氏の記事より以下が参考になる。

2-05 モーオタにおける「物語」とは - activeエレン
http://d.hatena.ne.jp/eal/20060920/1158762232

彼女たちは、アサヤンというバラエティ番組から誕生した。
バラエティ番組出身としては、それこそ前出の「おニャン子クラブ」などの前例はあったのだが、
女子生徒の放課後の遊び感覚の延長こそが「売り」であったおニャン子と違い、
基本的にモー娘は、ぬるま湯ではなかった。
アサヤン内では「生き残りをかけた」、つまりデビューできるか否かといった窮地に立たされ、
少なくとも彼女たちは本気だった。
それが真実であったかどうかは、実はあまり問題ではない。
アサヤンという番組は、そういった彼女たちの生死を懸けた懸命さを克明に描きだしていた。

アサヤンは、モー娘というグループ、モー娘のメンバーが「モー娘としていられること」を、
ことさら誇張して強大なものとして見せていた。
そこには、例えば、少年漫画の手法*1が取られていた。
(中略)
であるから、つまり、そのような
「漫画的なモー娘に魅せられたモーオタとは、モー娘を「偉大なる虚構」として認識する」


・もっと具体的には以下

2x モー娘とは物語である 物語の構造 - activeエレン
http://d.hatena.ne.jp/eal/20070122/p4


・そこから萌えへ。

2-04d-04 虚構主義 どうしてモーオタ間で論争がたえないのか - activeエレン
http://d.hatena.ne.jp/eal/20070118/p7


誤解を恐れずにいえば、ラブマ以降、辻加護ミニモニ。)のブレイクを経て、
モー娘のメンバーは急速に「萌え化」した(ように映った)。
(中略)
旧来派にしてみれば、まず、UFGに対する痛烈な批判がある。
モー娘の楽曲やパフォーマンスとは元来エンタテインメントではあったのだが、
これまでの「楽曲主義」を捨て、
メンバーのキャラクターを前面に出すことこそを良しとする方針転換こそが元凶であり、
結果萌え派を増長させた。
つまり、モー娘という「物語」を終わらせたのは、萌え派からの売上、
すなわち目先の利益ばかりを追究したUFGの責任である。

結局Perfumeが良いという話になる


いち早く、Perfumeに注目していた掟ポルシェ氏。
だいたい、ブログでファンの人たちが書いてることと同じようなことが書かれているので省略。

「キャラクターを作りこんだ「萌え」はもう先がない」

ゼロ年代アイドルソングは、草食系のオタク男子たちに
「僕はアイドルにエロを求めているわけじゃないんだ」という
言い訳ができるようにしておかないといけない。


(「掟ポルシェが真面目に語るゼロ年代アイドル論」『m9(エムキュー)』,p85)


その言い訳に最適なツールがPerfumeということになるのだろうか。
確かに、擬似恋愛機能が全面に押し出されたアイドルがもはや成り立たないというのはわかるが
「言い訳」のためにわざわざPerfumeを聴くのがアイドル文化なのだとしたら、
そんな文化滅んでしまった方がいい。


勿論、掟ポルシェ氏は
アイドルの楽曲だからって適当に作らずに、質の高いものを作るべきだ、
というようなニュアンスで、語っているのだろうと好意的に解釈する方が自然であろう。


だが、この記事単体で読むと「結局Perfumeは良い」という風にしか読めない。



「萌え」に先がないはずなのに、掟ポルシェ氏は何故、久住小春の曲をプッシュする?


だから、『m9(エムキュー)』の記事だけ読んで
掟ポルシェが真面目に語るゼロ年代アイドル論」だと思ってはいけない。

掟ポルシェの赤黒い日記帳 : 久住小春は天才だ!いやその逆だ!賛成の反対!
http://blog.excite.co.jp/porsche/7842843/


月島きらり starring 久住小春モーニング娘。)の2ndアルバム『きらりん☆ランド
にとんでもない爆弾が収録されている!なので緊急全面支持!!!!!!!!!!


こんにちぱ」という曲を絶賛している。
聴けばわかるが、決してこの曲は「クラブで流しても大丈夫なオシャレな曲」などではない。
むしろ、ちょっと笑ってしまう。
草食系のオタク男子の言い訳としてならPerfumeを聴けば十分であるはずなのに
何故、掟ポルシェ氏は「こんにちぱ」を押すのか。


いや、実はこれこそが掟ポルシェの真骨頂なのであった。



『「アイドルマスター」は「文化現象」である!』を読む


さて、ここで突然、同じく雑誌『m9(エムキュー)』所収の
id:sirouto2氏の中の人の別名義の人が書いている(自分で書いててよく解らない)
『「アイドルマスター」は「文化現象」である!』を参照したい。


タイトルの通り、この記事は、ナムコのゲーム「アイドルマスター」について書かれている。
id:sirouto2氏の中の人の別名義の人は(自分で書いてて意味が解らない)
ニコニコ動画の有名なアイマスMAD「とかちつくちて」について以下のように書く。

しかし、「とかち」に「人は過剰な『内面』『肉体』を読み込んで」いるから
大流行したとは感じない。
むしろ、徹底して外面性と記号性の表面に留まっていると感じる。


(中略)


「とかち」に魅了された者は、繰り返し動画を再生することによって、
記号の背後の複雑な内面を想像するのではなく、
むしろ記号自体に同一化しようとする。
すなわち、物語から行為へ移行する。
「とかち」の「萌え」は無我夢中で歌い踊る楽しみの享受なのである。


前後の文脈がないので、この引用だけでは少々解り難いかもしれないが
ここで、示したいことは、あるコンテンツを楽しむときに
『背後の「内面」を読み込み楽しむ』方法と『意味のない「記号」のままで楽しむ』方法と
少なくとも2通りはあるのではないかということだ。


月島きらりstarring久住小春モーニング娘。)の「こんにちぱ」という曲は
アイマスの「とかちつくちて」を見るときの快楽と近い気がする。
こんにちぱ」を聴くときに
例えばその歌詞の世界観の背後を考えたり、深読みしたりといった行為はあまり意味をなさない。
もっと純粋に音韻的な快楽の方が強いように思う。


従って、久住小春が「こんにちぱっぱーこんにちぱー」と歌い踊る際には
素直に「こんにちぱっぱー」と歌えばよいのである。


以下のように、Perfumeの曲の歌詞を深く読み込んで得られる楽しさとは違った快楽が
こんにちぱ」にはある。

QuickJapan EDITOR'S BLOG: QuickJapan77号Perfume特集おまけ座談会 4
http://quickjapan.seesaa.net/article/94328836.html

全く話はまとまっていないが終わり

Perfume久住小春を両方を語ってこそ、掟ポルシェの真面目なアイドル論となると思う。