マリアの心臓「少年愛の美學展(第二部)」見学記

Imamu2008-04-27



・2008.04.03〜5.11開催中。人形博物館「マリアの心臓」にて

足穂の飛行機好きは有名だが、足穂の飛行機がかならず飛ばない飛行機、
あるいは落っこちなければいけない飛行機であったのと同様、
ともすると足穂の少年愛も、実行を伴わない少年愛ではなかったろうかという気がする。
だから、この『少年愛の美学』を実践的なホモセクシュアルのすすめだなどと思ったら、
それこそとんでもない見当違いであって、「ときわの山の岩つつじ」ではないが、
むしろ官能の歓びは断念にあるとさとったほうが足穂の真意に沿っていよう。


澁澤龍彦「回想の足穂」――稲垣足穂少年愛の美学』1986,河出文庫


澁澤龍彦の表現を借りるなら
少年愛の美學展」は実践的なホモセクシュアルのすすめではなく、
墜落する飛行機、掴もうとしても掴めない、あの雲を追いかけるような
そういった非実践的、観念的な産物であろうか。



・市松人形
:ふっくらとして目が(人形にしては)細い。黒目が多い。おかっぱカワユス。前髪パッツン!!
・イタリアのアンティーク人形
:アヘンを吸う少年が香ばしい。

・絵画
山本タカトの「MALICE MIZER」。「月下の夜想曲」の衣装。

月下の夜想曲

月下の夜想曲

:横井まい子が描く少年の目の付近には年輪のような皺がある。
その他の部分の肌がキレイなだけに印象深い。





体重のない子供、きらきら光って黒く沈む。
メガロマニー(誇大妄想)と血痰にまみれたユキノシタ(Saxifraga stolonifera)は
糞塊の上を通過した無機質な索状能動体に汚される。
無数の味蕾に無数のナイフを捧げる。


誰もいない公園に独りぼっちでいるときの空気感。
密度を高めつつ官能と断念。


身体ごと現実から遊離するしか・・・
地に足をつけたままでは不全感が襲ってくる。現実は詐欺だ。



・現代人形

精気を吸われたかのような三浦悦子の人形。

少年というより老年に見える。しかしこれが精気を吸われた後の姿なのだとしたら
見た目の年齢という概念自体が意味をなさないのかもしれない。

恋月姫天草四郎時貞の端正な顔だち。

少年?少女に見える。
天草四郎の人形は近年の恋月姫の作品しか見ていなかった私にとっては
恋月姫っぽくない」と思わせる作品で珍しいものが見れた。

天野可淡の少年は口もとがチャーミング。

悪戯っ子。

山吉由利子の少年はキュート。胸が締め付けられる。

私は基本的に「マリアの心臓」の暗い空間に好感を覚えるが、
山吉由利子の人形に関しては、「白い空間・背景」の方が似合っているような気がした。


人間が生きて動くのは、「時間」を生きて動くことでもあって、
そこには重層的な生命と死のサイクルがたえずぐるぐると回っている。


オートマタにはこういうホメオスタシスがない。連続した「時間」に支配されていないからだ。
言い換えると、ホメオスタシスに組み込まれている「死」に浸透されていない。
オートマタは、「死」に裏打ちされていない
突出した「生」のみを時々切り取って展開してみせるからこそ、
人々はその中に形而上的な別世界、聖なるものの世界、永遠の世界を託し想像することができたのだ。
人形やオートマタが人と神とを結ぶ「依り代」として働くのは、それが「死」を内包しないからだ。


動くオートマタは人間の模倣をしているのではなく、
死と時間とに縛られない天使の模倣をしているのかもしれない。


竹下節子『からくり人形の夢――人間・機械・近代ヨーロッパ』岩波書店,2001,p146-147)

からくり人形の夢―人間・機械・近代ヨーロッパ

からくり人形の夢―人間・機械・近代ヨーロッパ


少年とともに「天使」というモチーフがよく利用されている印象を受けた。
やはりここでは「少年」は「人間の模倣」のような下等なものであるはずがなく
「天使」の観念を背負っているとみる方がよいであろう。



生きていることに興味が湧かない。死ぬことにも興味が湧かない。

誰にも触れたくない
壊されたくないから
目覚めず このまま 眠っていたほうがいいんだ

L’Arc〜en〜Ciel「眠りによせて」

進化しない誰もに流れるこの血が 大嫌い

L’Arc〜en〜Ciel「DAYBREAK'S BELL」


・現代人形

中里絵魯洲の人形の顔部分には顔の代わりに玉子やガラスが収まっている。


人間がみんなきれいに消えてなくなって、
そんな世界になったとき


白い玉子のツルツル感と濁ったガラスの毒々しさこそが「少年そのもの」であったのだとわかる。




そもそも、このような関係性の幻想というものは、人間と機械の間にだけ起こるものだろうか。
人間が「理想の他者」に向けた関係性への渇望とその満足への希求は、
たとえそれが生身の人間同士の関係にあっても同じ本質をもっているのではないだろうか。

竹下節子『からくり人形の夢――人間・機械・近代ヨーロッパ』岩波書店,2001,p189)