特集 ペドフィリア『アディクションと家族』25巻2号/ロリータ・ロリヰタ・ロリィタ・ロリコン

Imamu2009-03-06



・サイト;http://www.iff.co.jp/book/adf/a20082/index.html

アディクションと家族 第25巻2号―日本嗜癖行動学会誌 (98)【特集】ペドフィリア

アディクションと家族 第25巻2号―日本嗜癖行動学会誌 (98)【特集】ペドフィリア

社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則を設け、それを特定の人々に適用し、
かれらにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。
この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくて、
むしろ「他者」によってこの規則と制裁とが「違反者」に適用された結果なのである。


H・ベッカー,村上直之(訳)『アウトサイダーズ』1978,新泉社)


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少女が好きな男というのは、男社会に安住していることに気がつかないまま
男社会からの脱出願望をかきたてている男だけだ。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p208-209)

完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば
男の観念のなかにしか存在し得ないであろう。
そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、
観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。


澁澤龍彦『少女コレクション序説』)

さよなら この世界よ 傷付くだけの現実なら
ひとりでも向かいたい 再生の地まで
(中略)
Just like a stupid mind 僕はきっと 今は未完成のオブジェ


(少女-ロリヰタ-23区「未完成サファイア」)

未完成サファイア

未完成サファイア

だけど妄想以外
此の世に
他に
一体何がアルって言うの
(ゾンビロリータ「血液(BLOOD)」)
http://www.interq.or.jp/red/nekoten/zombie/zombie-top.html

死ぬまで一人 トラジックロリータ


ヤプーズ「ロリータ108号」)

斎藤学「特集にあたって――ペドファイルとは誰か?」p104-106

性愛対象とする子どもの年齢からみると
思春期(13〜16歳)を対象とするペデラスティ(pederasty)、
これの緩和型(性愛空想の対象とするだけ)である
エフェボフィリア(ephebophilia)やヘベフィリア(hebephilia)は、
厳密にはペドフィリアから除外される
(症例によっては移行が見られる場合もある)。


・退行型(regressed)-偽神経症性(pseudneurotic)
・固定型(fixed)-原発性(primary)

ペドファイルの自己像は「傷つけられた子ども」であり、
子どもたちを理想化し、その子どもたちに自分の性的欲求を投影させることで
自己の脆弱性と怒りを乗り越えようとしている。

つまり、ペドファイルは自らの「子ども性」の維持にエネルギーを使う人、
さらに踏み込んで言えば「親に抱擁される感覚」を渇望している人ということになる。

『子どもは非性的な存在であり、『性的潜伏期』である』とする考え方は、
イギリスのヴィクトリア朝時代(ヴィクトリア女王の在位一八三七年から一九〇一年)の
性を抑圧し、忌避する傾向の影響だと考えられる。
(中略)
また、「健康な子どもの好奇心は、性的な主題に向けられることはめったにない」や
「子どもは性について何の感情も考えももたないのがいい」といった言説に裏付けられた
「ロマンティック・チャイルド」、つまり「純真無垢」な子ども観もこの時代につくられたものである。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p169)

援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)

援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)

ペドフィリアは精神医学でいう性倒錯(パラフィリア)の一種で、
幼児に性的な欲望をもってしまう性癖を指す。ペドフィルとはそうした性的嗜好をもつ人のことで、
日本語では幼児愛好者や小児性愛者と訳される。
ペドフィルには男性と女性のどちらもが存在し、先天的な者と後天的な者に分けられる。
後天的なペドフィルはしばしば成人への劣等感から、優位に立ちやすい幼児を狙うとされる。
一方、先天的なペドフィルは、真性ペドフィリアとも呼ばれ、精神の未成熟や幼少時代への回帰願望から、
その人間の精神年齢と同じくらいの幼児を性的対象にするとされる。
また、ペドフィルは男児と女児いずれも愛好の対象とする場合が少なくない。
しかし、いちばん多いのが、男性のペドフィルが女児を対象とするケースだ。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p161)

斎藤環「メディアとペドフィリア――ロリコン文化はいかに消費されたか」p107-112

日本における特殊事情を考えるなら、精神医学的な正確さはともかくとして、
ペドフィリアロリコンの慣例的区分について無視するべきではない。


ナボコフ『ロリータ』
ラッセル・トレーナー「ロリータ・コンプレックス

ロリータ・コンプレックス (1974年) (太陽選書)

ロリータ・コンプレックス (1974年) (太陽選書)

澁澤龍彦「批判的読み替え」


吾妻ひでお:1979年ロリコン同人誌『シベール』

つまり、ロリコンポルノのブームは、青少年の性的嗜好の変化に先導されて起きたものではなく、
パロディやユーモアといったメタ的な身ぶりにおいて見出され、
それに性的嗜好の変化が追随したとみるほうが事実に近い、ということになる。

そこでは『異世界』の美少女への耽溺が、
プロレスやアイドルの『追っかけ』と同等の一種の『B級指向』として自負されていた


宮台真司,石原英樹,大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体』ちくま文庫,2007)


日本社会において「ロリコン」が定着し始めたのは一九八〇年代前半だが、当時は、
ロリコンとは十二歳から十五歳程度の少女を対象に性的興味をもつ男性のことを指していた。
なかには、少女の年齢で区分され、七歳から十二歳程度を「アリコン(アリス・コンプレックス)」、
七歳以下を「ハイコン(ハイジ・コンプレックス)」とする区分も存在した。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p160)

ロリータブームは1978年の少女写真集「リトルプリテンダーズ」のヒット、
そして同時期に漫画やアニメのマニアの間でも
作品に出てくる少女を愛好する風潮が高まったことから、80年代に一気に表面化した。
陰毛の生えていない少女のワレメは性器ではない。だから、無修正のロリータヌードは違法ではない。
今、考えると確実におかしい論理だが、陰毛=エロという状況であった日本のエロ業界では、
それなりに納得されるロジックでもあった。
(中略)
このロリータヌードブームを支えていたのは、真性のロリコンだけではなく、
無修正で性器が見られるならと、
成人女性ヌードの代用で見ていた層も相当数いたと思われる。


安田理央,雨宮まみエロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』翔泳社,2006,p25)

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)

実質的なロリコン漫画ブームは、商業誌ではせいぜい
82年〜84年の二年間程度のものにすぎなかったが、
漫画絵・アニメ絵の愛らしい少女キャラクターという図像はそのまま継承されていく。
ロリコン漫画ブーム衰退の理由は単純に
読者にも作者にもホンモノの幼児性愛者がほとんどいなかったからにすぎない。


(中略)


このロリコン漫画衰退期に二人のキー・パースンが登場する。
一人目は若手編集者だった大塚英志だ。
大塚は当時、劇画誌として創刊されながら、まったく数字の出せなかった
漫画ブリッコ』(白夜書房)の編集長に就任し、彼のいう「美少女まんが誌」へと大改造を行う。


(中略)


フリーだった大塚は同誌と並行して、執筆者がほとんど重なるエロ抜きのアンソロジー・シリーズ
「プチ・アップルパイ」(徳間書店)の編集にも携わり、新しい感覚の漫画とその作家たちを売り出していく
(大塚の、「同根の商品をアダルトと非アダルトに分割しつつ同時進行させる」という戦略が、
90年代後半に、今度は大手資本による「萌え」と「抜き」の分離という形で反復されることになるのだが、
その点については後述しよう)。


永山薫エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』イーストプレス,2006,p74-75)

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門



ペドファイルロリコンの構造
・おたくとメディア

言い換えるなら、倒錯者は幼児期の多形倒錯の名残ではない。
彼らはいったん、「正常」な性的発達過程を経て、
すなわち「去勢」の段階を経た後に、虚勢の現実を否認するのである。
かくして倒錯者においては、「心的分裂」のもとで二重の態度が共存することになる。


大塚英志まんが・アニメ的リアリズム

自律した虚構空間にあっては、そこに投影される欲望も、
なかばは必然的に倒錯の要素をはらむだろう。
なぜだろうか。その空間にあっては、いかなる表象物も「象徴的去勢」を被らず、
むしろ自動的に「去勢否認」的なドライブを発生してしまう。
加えて、そこが虚構空間であるという意識が、フロイトの言う「分裂」を維持しやすくなる。

おたく達は、そうした空間の中にあって、
みずからのセクシュアリティを自由に再構成することができる。

彼らほど虚構の虚構性に敏感なものは少ない。
彼らはまた「純粋な虚構」や「純粋な現実」などありえないことを、誰よりもよく知っている。

補足:斎藤環氏が指摘していない日本におけるもう一つのロリータについて

日本で独自に生まれたロリータ達にとって、ロリコンは最大の敵です。
ロリータのお洋服や姿形は、"少女性"をデフォルメしたものであるともいえますから、
ロリコン達はロリータに卑猥な感情を抱きます。多くのロリータ達が、
危険なロリコンの男性に拠って拉致されそうになったり、妄想の中で穢されます。


ロリータ達の大半は、現実世界の性的欲望に生理的嫌悪を憶えているのです。
従って、身体性に抗うような観念的なフォルムのお洋服を身に纏い、人工美を極めようとするのです。


嶽本野ばらロリヰタ。』新潮社,2004,p14)

ロリヰタ。

ロリヰタ。

ロリィタ」の少女が実践している「少女趣味的」であること(「かわいい」)と、
大人が期待し社会が命令するような「少女らしさ」「女の子らしさ」とは
別物であることを痛感した。


(水野麗 "「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱――「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー"
『女性学年報』25,2004)

私たちは、日常生活を支配するさまざまな政治力から自由になりたくて、
ロリータという祝祭を求めている。
だからこそ、そこに入り込んでこようとする
「性的な視線」という権力を認めるわけにはいかないのだ。


(松浦桃『セカイと私とロリータファッション』青弓社,2007,p185 )

セカイと私とロリータファッション

セカイと私とロリータファッション

私には彼女たちが「女」であるという前提はそのままに、
むしろ性にまつわる「らしさ」、
まさにジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化を行なっているように見える。


(水野麗 "「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱――「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー"
『女性学年報』25,2004)


――ロリータ・ギャル――

「ロリータとギャルの共通点と相違点を簡潔に述べるなら、
どちらもフィギュア・コンプレックスに支配されていながらも、
その対象となるフィギュアが異なるということです。


ロリータの場合、模倣するフィギュアは『不思議の国のアリス』のアリスです。
一方、ギャルの理想はバービー人形にあります。
実際、ロリータの究極のモチーフはアリスにあり、
アリスをプリントしたアイテムは、必ずヒットします。


ギャルの場合、バービーというアイテムが前面に押し出されることは
ロリータに比べると少ないですが、
ギャル服のパターンを検証していくと、
最終的にバービーの存在に行き当たることは、すぐに理解出来る筈です。


ロリータもギャルもデフォルメされた身体、
人工的な身体を志向するフィギュア・コンプレックスを抱えている。
同じフィギュア・コンプレックスを持ちながらも、
アリス・コンプレックスであるか、バービー・コンプレックスであるかで、
正反対のベクトルを有しているように見える」


嶽本野ばらロリヰタ。』新潮社,2004,p20)


――ブリッコ――

また、ブリッコの特徴は自分で自分のことを
「お母さん、もっとゆっくりあるいてよ。リカちゃん迷子になっちゃうじゃない」などと、
自分で自分の名を呼ぶことです。
これは常時メタ意識を発達させ、強固にしていることを窺わせます。
常に自分を第三者敵視点からモニターしているわけです。
とすれば、あの独特の演技的なかわいさもメタ意識による演出だと考えられますし、
その結果相当美意識も発達させていると想像されます。


(中略)


さらに、このタイプの子ども達は常に第三者的視点で客観化能力を高めているためか、
どこかクールで計算高いところがあります。
そのせいか、かわいいので近付いてゆくと意外と人間的に冷たくて、
ドキッとさせられる場合があります。


須原一秀『超越錯覚――人はなぜ斜にかまえるか』1992,新評論,p31)

磯崎由美「『加害者』を作り出すもの――子どもを狙う性犯罪の取材から」p113-117


2004年3月、群馬県高崎市の小学女児殺害事件。
被告Bの自筆文書「性犯罪に遭わないために犯罪者から考えること」

「弱い者は“強さ”“弱さ”に敏感です。
自分の気持ちをハッキリ言えるように育てられた子どもは私たちには脅威です」
「“大人に怯える憶病者”なのです。その心理を逆手に取った防犯対策を考えてみて下さい」




しかし、最近の事件を追っていくと、「社会の底辺にいる傷ついた弱者」
という構図には収まらない人たちの存在を感じる。

彼らが前述した古典的なペドファイルと大きく異なるのは、
その多くがネットワークを形成していることだ。
そこで結束を強めるツールとされているのが、児童ポルノの画像である。

「加害当事者との対談:「やめたい」と思う自分はいたが、歯止めになるものがなかった」p118-127

はい。あの、ぜひ私みたいな人間が1人でも少なくなるように・・・・・・。よろしくお願いします。




「そうだよね、いままで大勢の少女に会ったけど、
ぼくの欲望に火をつけるのは、そのうちの何人かだけだ。
大人の女が男の欲望に火をつけるのと全く同じだよ。
あるいは、一人の女が、ある特定の男にしか心を動かされないのと同じだよ。
そそられるのは、ある特定のタイプだろ?
だけど自分の好きな子どもと一緒にいるだけで楽しいよね。
ぼくはしょっちゅうそうしてるよ」


どうやら彼は、性器への挿入という直接的行為さえなければ、
子どもと一緒にすごしたり触れ合ったりして性的満足を得ることが、
醜悪なことでも一線を越えることでもないと考えているようだった。
とにかく彼は、自分のしでかしていることがすでに犯罪だとは思っていないようなのだ。


だが、もしかすれば、彼の言う通りなのかもしれない。
ひょっとしたら、調和に満ちた子どもと大人の性的関係――なるものが存在するのかも知れない。
それは、ぼくにはまだ分からない。


(Jacob Billing(著)中田和子(訳)『児童性愛者――ペドファイル解放出版社,2004,p22)

児童性愛者―ペドファイル

児童性愛者―ペドファイル

それが、獲物に食らいつき、子どもたちの肌にむしゃぶりつく様子に由来するのか、
男から発散している何か吐き気をもよおさせるものに由来するのか、
わたしには分からないが、ある日、子どもたちは自分たちが男をどう呼んでいるか話してくれた。
「ワニ男」だと。そう、子どもたちの言うとおりだ。「ワニ男(クロコダイル)」。


(Marie-France Botte(著)Jean-Paul Mari(著)堀田一陽(訳)
『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p71)

子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間

子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間

「オープンに自分の気持ちを話せれば、解放された気分になるよ。
君だろうが、ぼくだろうが、協会の他の人だろうが、何に欲望を感じるかは、ぼくらのせいじゃないよ。
ぼくは今まで一度もしたことがないが、誰かを傷つけない限り、
ぼくたちのように感じるのがそんなに悪いことだとは思わないよ。
それに誰だって、自分の好きな人、愛している人に危害を加えるなんて、当然しないだろう?


(Jacob Billing(著)中田和子(訳)『児童性愛者――ペドファイル解放出版社,2004,p23)

「昨夜は八歳の男の子でした。ここで働いている子で、愛着を感じたな。
性的にもずいぶん成熟していたよ。数時間、一緒だった。おわかりですよね、
一晩中は引き留めなかったんですよ、カバンから何か盗まれても嫌ですから」
(中略)
「とっても面白そうね。でも、あなたタイ語できるの」
「少々。初級程度なら。でも、子どもってのは、愛を欲しがっているんで、
言葉のやりとりじゃないから」
(中略)
フランス人建築家は調子にのって、話をつづけた。
「ここでは、子どもはかなり幼いころから性的に成熟する。八歳、いや十歳かな。
そこでからだを提供する。つまり、売春する。彼らには経済的な価値があるからね。
でもそれだけじゃない。大人は子どもを痛がらせずに肉体的に愛することができるんだ。
新聞って奴は何でも書くよ。ヨーロッパでは子どもとのセックスは虐待と見なされる。
恐ろしいことだ。もっと違うものがあるんだ。おわかりですよね、それが新しき愛なんです」
(中略)
「あなた、フランスでお子さんたちとも、そんな愛の関係を結ぶこと、想像できて?」
「いやぁ、とんでもない・・・・・・。でも、残念だな。だって、わたしたちは本物の関係から外れていますから。
(中略)
あなたに子どもができたら、タイの父と子の関係がもっとよく理解できますよ。
父親との間に性的関係を見いだすことよりも、
小さい女の子や男の子にとって、もっと安心感を与えるものって何だと思います?
それを引き受けるものこそ外国人だという考えのほうが当然だと思いませんか」


この男は何不自由ない家庭で育った。最高の大学で学び、子どもも生まれた。
わたしには、どうしてもこの男が理解できない。


(『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p86-87)

「そいつは、ぼくの上に乗ってきた。ぼくは大声を出した。痛かったから。
でも、誰も助けに来なかった。そいつは口をふさいで声を出なくしたんだ。
終わったあとも、ずっと腹ばいになっていた。動けなかった、腹がすごく痛かった。
目をさますと、そいつはいなくて、テーブルにお金があった」
(中略)
「あいつら、吐き気するようなことやらせるんだ。マスターベーション手伝わされたよ、口でね・・・・・・。
痛いし、もっと悪いことに、あいつら、ぼくらがそれを好きなんだと思っている。男なんて大っ嫌いだ」
ノイは目を閉じて、言った。
「大きくなったら、女の人と結婚して、きれいな家に住むんだ」


(『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p95)

海外文献 デイヴィッド・フィンケルホー 加害者『児童性虐待――新たな理論と研究』第4章(全訳)p128-144

性的虐待者の文献で最初に行き当たるのは、加害者の動機が性的なものであるか否かをめぐる議論だ

セックスは常に性的ではないニーズを満たすために利用される


・性虐待と精神病理

従来の性虐待についての理論の特徴は、文献を読めばはっきりする。
精神病理を強調している理論が多いのだ

虐待が蔓延しているという実態を見れば、
精神病理のみを強調する理論からは遠ざからずをえず、
ノーマルな要因が関与していると考えざるをえない


・要因1:情緒的一致(emotional congruence)

実際のところ、成人女性より子どもの方が
男性中心的文化の期待に「フィット」するのだ


・要因2:子どもに対する性的興奮


・要因3:成人との性関係のブロック

成人との性関係ブロック論についての検討から、
これらの理論はさらに2つのタイプに分類できることがわかる。
発達型ブロック論と、状況型ブロック論の2つである。


・要因4:脱抑制


・虐待被害者は加害者になるか?


――性的関心の排他性と強さ――
性的指向型―固着型―情緒的一致論による説明
・状況誘発型―退行型―成人との性関係ブロック論による説明

加害者の類型論には、別のアプローチもある。
固着型と退行型という2つのカテゴリーではなく、
連続性のある二次元軸が想定され、
すべての加害者はそのどこかに位置づけられるという考え方である

1.子どもに対する性的関心の強さと排他性は区別可能であり、別々に扱う必要がある


――近親姦加害者とペドファイル――
・個別論(近親姦加害者とその他の子どもに対する性的虐待者を異なるグループとして扱う)
・統一論(近親姦加害者を子どもに対する性的虐待者の一部として扱う)


ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ

ロリータ

『ロリータ』を例にあげよう。これはどこにも行き場のない十二歳の少女の話だ。
ハンバートはロリータを自分の夢見る少女に、死んだ恋人に仕立てあげようとし、
彼女の人生をめちゃくちゃにした。
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による
十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。
(中略)
実はナボコフの小説は、ハンバートのように私たちを自己の意識の産物に変えようとする者たちへの報復ともなっている。
(中略)
ナボコフはハンバートを描くことで、他者の人生を支配するすべての唯我論者の正体をあばいたのである。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p53)

テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

――ドロレス=痛み――

まさに冒頭のページで、ハンバートはそれぞれちがう場面で使われる、
彼女のさまざまな名の一部をあげる。
ロー、ローラ、そして彼の腕の中ではいつでもロリータ。
彼女の本名がドロレスであることも知らされる。
スペイン語で「痛み」を意味する言葉だ。
(中略)
読者は直接にではなくハンバートを通して、
彼女自身の過去ではなく語り手/性的虐待者の過去あるいは想像上の過去を通して、ロリータを知る。
これこそハンバート自身が、多数の批評家が、そして私の学生のひとりニーマーがいう、
ハンバートによるロリータの「唯我化(ソリプサイゼーション)」、
すなわち他者を自己の意識の産物としか見ない態度である。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p58)


――ロリータイメージ・ハンバートの視線――

ロリータのイメージは、読者の心の中で永遠に彼女を軟禁する看守のイメージと結びつけられる。
ひとりでいるロリータに意味はない。彼女は牢獄の格子を通して初めて人の興味を惹く存在になる。
(中略)
私たちを深く結びつけていたのは、犠牲者と看守のこの理不尽な親密さだった。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p59)

ハンバートはシャーロットのそうした内面を見ていない。
いや、見ることを本能的に避けていると言ったほうがいいだろうか。
それは、幻想のロリータだけを視野に収めて、
その背後にいる本物のドロレスという女の子をあえて見まいとしているのと同じ態度である。
だから、わたしたち読者がハンバートの語りに酔っているかぎりは、
シャーロットという女性の本当の姿も見えてこない。
共感すべきあわれな女性ではなく、愚かな中年女だとしか映らない。
ハンバートの病は、こうしてわたしたちにも伝染する危険がある。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,p246)

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだと私は言った。
それは最愛の人、ロリータに対しても同じである。
ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p75)


――詩人ハンバートと犯罪者ハンバート――

ここまでは、犯罪者ハンバートが詩人ハンバートの助けを借りて、
ロリータと読者の両方をまんまと誘惑できたように見えるだろう。
ところが、その実、彼はその両方に失敗する。
ロリータの場合、彼女に進んで体をあたえさせることにはついに一度も成功せず、
そのため、愛の行為はそれ以降いっそう残酷な、汚らわしいレイプと化す。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p67)

要するに、ハンバートがわたしたちの目の前に提示するものは、
ニンフェットという幻想の中でとらえたロリータと同様に、
オリジナルからは確実に歪んだコピーにすぎない。
わたしたち読者は、
そうしたハンバートの織りなす虚構の裂け目からちらちらとのぞく、
「現実」あるは「真実」を読み取らねばならないのである。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,p229)

ハンバートの散文は、時として恥知らずなほど凝りすぎた文体になるが、
これは読者を、とりわけ高尚な読者を誘惑するのが狙いである。
彼らはそうしたペダンティックな知的芸当にだまされやすい。
ロリータはみずからを守る術もなく、
自分の言い分をはっきり述べる機会すらあたえられることのない、そういう類の被害者である。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p64)

これをさらに言い直せば、ハンバートの文章を「美しい」と思うのは、
幻想の中でとらえた「我がロリータ」をハンバートが美しいと錯覚しているのと、
きわめて近い関係にある。
ハンバートのロリータではなく、生身のドロレスは、
身に纏わされた幻想のアウラを剥ぎ取ってみれば、ごく普通の女の子かもしれない。
そして、その幻想にある程度まで酔うことなしには、この小説を読めないのもまた事実である。
しかし、それはあくまでもある程度までの話であり、
全面的に酔うことは危険だし、罪であるとすら言ってもかまわない。
なぜなら、ハンバートの罪は、ありもしないロリータという幻想に酔いしれたことにあるのだから。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,P266)




初めて『ロリータ』について話しあったあと、私は興奮してベッドに入り、
ミートラーの質問のことを考えた。
『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』はなぜこの上ない喜びをあたえてくれるのか。
こうした小説自体に問題があるのか、
それとも私たちに問題があるのか――フロベールナボコフは心ない人でなしなのか。
(中略)
あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。
私はもったいぶってそう断言してみせた。
形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。
だからこそ私たちは『ボヴァリー夫人』を愛してエンマのために涙を流し、
無作法で空想的で反抗的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ『ロリータ』をむさぼり読むのだ。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,P73)

読者がハンバートの語りに酔い、彼に同調するならば、
ハンバートはたとえどれほどグロテスクであれ究極的には愛を歌い上げている
ロマンティックな詩人に映るだろう。
ところが、彼の語りを冷ややかな醒めた目で見て、
どこまでもいわゆる「信頼できない語り手」として距離を置くならば、
ハンバートはとんでもなく身勝手な男であり、レイピストであり、
唾棄すべき怪物としか映らないだろう。
わたしたち読者は、いわば両方の目をあけていると、
このハンバートの両極端なイメージを同時に視界にとらえることになる。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,P266-267)

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少女が好きな男というのは、男社会に安住していることに気がつかないまま
男社会からの脱出願望をかきたてている男だけだ。


「あんたの自己矛盾と俺となんの関係があんの?」としか思わない。
私は男社会に属さない男だから、そういうものは関係ないのだ。
私は少女論を書きたいほど変態じゃない。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p208-209)

男性としての特権を捨てるつもりはないが、
空想の中で気持ちよくされる側に廻ったって、誰もわからない。
トランスセクシュアルやトランスヴァスティズムを奥深いところで
内包しているかもしれないが、切実に女性になりたいとか、
女の服装をしたいというわけではない。


性同一性障害を抱えている人からすれば身勝手な男の都合のいい妄想だろう。
だが、妄想とはそもそも身勝手で都合のいい空想のことなのだ。


永山薫エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』イーストプレス,2006,p146)


――〈男〉――

男たちは個々の具体的な行為を通じて、つねに〈男らしさ〉を
その場その場で再生産し続けることを強いられる。
こうして男たちは〈男らしさ〉にこだわり、それに縛られ、
そこから脱出できない状況がつくり出されていく


伊藤公雄『「男らしさ」という神話』2003,日本放送出版協会)

ジェンダーアイデンティティは存在しないといったほうがよいだろう。
あるのはジェンダーを描写するためのスケジュールだけである


(E.ゴッフマン(著),石黒毅(訳)『行為と演技――日常生活における自己呈示』)


――〈女〉――

という訳で、近代以後の男達は、
癒着して判然としなくなってしまった"自分"というものを照らし出す為に
"女"という偶像を据えるのだ。


"女"という役割が決してマイナーにはならないのは、
その役割の中に"救済者"というものが含まれているからだ。


そして勿論、聖なるものは賤なるものなんだから、
女という崇高なるジェンダーを持ったものは、女の肉体なるマイナーな性を持つのだ。
男社会に"何か"を分断されている女は、勿論、個人的には男というものに分断されて、
聖と賤の両極端に引き裂かれている――しかも今や"明確に"ではなく、"曖昧に"。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p207)


――髭の生えた少女――

しかしそれにしても、男はどうして少女が好きなんだろう?
答は勿論決まっている。少女が好きな分だけ、その男は少女に近いからだ。


男は少女に近づけば近づくほど、自分自身の地位を危くされる。
だもんだから、平然と少女のまんまでいる"少女"が好きなんだ。
自分のことをなんとかしてくれるんじゃないかと思って。


しかし、少女はなんにも救わないんだって。
人を救いたがる女は"オバサン"というもので、そしてオバサンというものは、
自分がオバサンでしかないことにコンプレックスを持ってるものなんだから。


男は、過剰に性的になると少女に近くなる。
でも少女というものは決して性的になろうとしないものだから、
そこで誤解が生まれるんだ。


少女は不思議に傷つくし、男は自分の外側に謎を発見するし。
しかし、本当の謎というのは、そんなにも易々と、男が少女になってしまって、
そのことを一向に自覚しないでいることだ――男のくせに。
その内きっと、世界は美しくない髭の生えた少女で一杯になってしまうだろうし。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p216)


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さよなら この世界よ 傷付くだけの現実なら
ひとりでも向かいたい 再生の地まで
(中略)
Just like a stupid mind 僕はきっと 今は未完成のオブジェ


(少女-ロリヰタ-23区「未完成サファイア」)

だけど妄想以外
此の世に
他に
一体何がアルって言うの
(ゾンビロリータ「血液(BLOOD)」)

My dady made me ストイックレディ
それでも好きと言って欲しかった
鉄のVirgin ストイックロリータ
My dady made me トラジックレディ
残酷すぎる パパは博士(ドクター)
死ぬまで一人 トラジックロリータ


ヤプーズ「ロリータ108号」)


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ジョック・スタージス写真展(ときの忘れもの)見て,U-15アイドル見て - 死に忘れましたわ
「性-記号」or「性/記号」-「エロマンガ is Dead(or Alive)special issue 2007」の断片 - 死に忘れましたわ