小向美奈子絶対肯定宣言――小向美奈子につられてストリップ鑑賞@浅草ロック座

Imamu2009-06-14



・ROCKZA.NET/浅草;http://www.rockza.net/asakusa/index.html

小向美奈子 Atmosphere [DVD]

小向美奈子 Atmosphere [DVD]

元タレントの小向美奈子(23)が
ストリップでデビューすることが16日、明らかになった。
小向は覚せい剤を吸引したとして
今年1月に、覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕され、
執行猶予付きの有罪判決を受けている。
(中略)
その転機を誓ってから約3カ月。
6月5日(金)から浅草ロック座(東京・台東区)でスタートする
「ロック座25周年特別興行第一弾」の
スペシャルゲストとして小向の出演が決定。
関係者は「本人が脱ぐ」と小向がストリッパーとして登場し、
実際にショーを行うことを明らかにした。


(裸で出直し!小向美奈子 ストリップデビュー(芸能)
スポニチ Sponichi Annex ニュース
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash2009051610.html

美や芸術は見る人を救うが、ストリップは因果物の方へ突き落してくれる


坂口安吾安吾巷談 ストリップ罵倒」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43179_21391.html

雨に溺れながら 問い掛ける あたしは道具なの?
心などなければ どれだけ むくわれるのだろう


(the GazettE「飼育れた春、変われぬ春」)

斑蠡~MADARA~

斑蠡~MADARA~

くだんないの
人間なんて 皮一枚剥げば 血と肉の塊なのに
くだらない


しかし彼女がごうまんにそう思うのは彼女じしんが
その皮一枚で美しいからである 生まれたときから


岡崎京子ヘルタースケルター祥伝社,2003,p258)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)



RUI「月のしずく」という曲が耳から離れない。
それは一部の五景、伊沢千夏さんが踊っているときに流れていた曲だから。
これからこの曲を聞く度にストリップのことを思い出してしまうだろう。

月のしずく

月のしずく


小向美奈子さんの出演は二部からだが、一部から通して見ることにした。
浅草ロック座に入りボディーチェックをうける。

当時の踊り子には、(1)うまい踊り手と(2)ヌード表現のうまいコ、
そして(3)ほほ笑みのうまいコ(中略)があって、
(1)と(2)のことを"ダンサー・ヌード"と呼び、(3)を"マヌカン・ヌード"と呼んだ


(みのわひろお『日本ストリップ50年史』三一書房,1999,p47)

日本ストリップ50年史

日本ストリップ50年史


確かに笑顔が印象的な踊り子さんと
妖艶な踊りが視野に焼き付く踊り子さんは違うタイプにみえた。

ストリップ界も、広い意味での風俗、に含められることが多いが、
(女性の)ボディで(男性の)ボディを直接楽しませる、
ということを主体としない、(女性の)一方的な、踊りやアクション(ベッドショーなど)
を見せることで楽しませる・・・というストリップの世界は、
五十年の歴史を持った"ステージの世界"である。


(みのわひろお『日本ストリップ50年史』p216-217)

ストリップ初体験であったのだが
流れとしては「数名でダンス→ソロでストリップ」の順で、
踊り子さんたちは皆カッコよかった。


ダンス部分は普通に演劇などを見ている感覚に近かった。
確かに“ステージの世界”であった。

ストリップの起源は、シカゴのバラエティー劇場で、
体を激しく揺すりながら歌っていたコーラスガールが、
偶然にも衣裳の肩ひもを引っかけてしまい、
乳房があらわになったという突発事件にあった。
その"事故"が、意外にも客の大喝采を浴びたために、
そのコーラスガールは毎夜わざと
肩ひもが切れるように細工し、乳房を見せて人気を得たという。


荒俣宏『万博とストリップ』集英社新書,2000,p43)

万博とストリップ ―知られざる二十世紀文化史 (集英社新書)

万博とストリップ ―知られざる二十世紀文化史 (集英社新書)

歌舞伎踊もストリップ・ショーも、共に戦後に将来された
平和時代の享楽的生活態勢の欲求に応じたものであった。
カジノ・フォーリーとても、関東大震災の刹那的生活態勢に呼応したものだった。
そしてこの三者とも、時代の安定すると共に衰退して、
他の演劇の中に溶和し昇華されてゆく、
という同じ過程をたどっていることは、演劇史的に見て興味深い。


河竹繁俊『日本演劇全史』岩波書店,1959)

日本演劇全史

日本演劇全史

加害と被害の二重性


以前見たSMショーと比較すると、
ソロのストリップは一人で加害者と被害者の両方を演じているように感じた。

ストリップ・ティーズにおいては、
たとえ演技する女がひとりで脱衣するとしても、
男性の観客を代表するこの非人称の存在に、
じつは衣服を剥奪されているという場合が多いのである。
というよりも、演技する女はひとりで犠牲者と犠牲執行者の役割を兼ねているのだ


澁澤龍彦「犠牲と変身――ストリップ・ティーズの哲学」
『少女コレクション序説』中央文庫,1985,p45)

少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)


加害者性を強く感じるときは、とても挑発的に見えるのだが
しかし、その加害性の刃は自らに向けられているのである。
この加害と被害の二重性こそがストリップの魅力なのであろうか。

人体は物である:スポーツ・ファッション・セックス・ライフハック

衣服をつけている女は、まさしく日常的世界の女であるが、
男の視線にさらされながら、音楽の伴奏に合わせて、
悩ましげな姿態を繰り返しつつ、
一枚一枚、少しずつ衣服を脱いでゆく女は、
すでに個人としての女ではなく、単なる肉体としての女に
移り変わろうとしているのである。


(中略)


このサディスティックな視線の欲望は、
少なくとも意識的にストリップを楽しもうとする、
男の観客ひとりひとりの心の奥に、
ほぼ確実に存在するものではないかと私には思われる。


澁澤龍彦「犠牲と変身――ストリップ・ティーズの哲学」
『少女コレクション序説』p48-49)

この発想の下には、二十世紀に生まれた最も特徴的な人体観が宿されている。


人体を物と見る発想である。


物であるから、魂や霊や人格とは切り離して、鑑賞することが可能となる。
物であるから、人格とは別に改良や研磨が可能となる。
また、その人物の人格とは関係なく、その肉体だけを愛することすら可能となった。
二十世紀にファッションやスポーツ、あるいはセックスが
大々的に意味転換したのも、このような下地があったせいである。


そのとき、キイワードとなったのが、「機械」であった。


機械は工業製品だが、肉体もまたその機能は
「生きた機械」として測定可能なのである、と。


なかでも注目されるのが、「若さ」への崇拝である。


二十世紀は老いを悪とし、若さを善とした、
人類史上でも目新しい世紀となった。
若さとは若い肉体を意味し、
機械的能力のまさった最新鋭機種のことである。
労働力としてもすぐれていた。


荒俣宏『万博とストリップ』p224)

グラマー娘は身体を清め見てくれを整えるのに没頭し,
スポーツマンは筋肉をつけるのに熱中し,
重役は性格改造に腐心する,
これはすべて"科学の力を借りて"やっているのである。


(マーシャルマクルーハン「強者のナルシシズム
『機械の花嫁―産業社会のフォークロア』p335-336)

機械の花嫁―産業社会のフォークロア

機械の花嫁―産業社会のフォークロア

グラマー娘はテクノロジー社会の命令にしたがって
生物体としての自分の体を一台の機械にかえているのである。
これは恋愛機械ともいうべきもので,
少なくとも当人は手順通りに全工程を終えれば,
恋は思いのままになると言いきかされているのである。


(マーシャルマクルーハン「コルセット美容曲線」
『機械の花嫁―産業社会のフォークロア』p360)

戦後の日本に誕生したストリップは、
はじまりのときから深々と「近代」を刻印されている。

たとえば、ストリップの世界で働く人々は、
しばしばその特異な身体技術をさして、
カネをもうけるための手段にすぎないといった、
じつにミもフタもない説明でかたづけてしまう。
こうした台詞ひとつとっても、
そこにはおそらく「近代」の変容がやどっているように感じられる。


橋本裕之「ストリップ研究ことはじめ」
『歌舞伎の狂言――言語表現の追究』八木書店,1992,p307)

歌舞伎の狂言―言語表現の追究

歌舞伎の狂言―言語表現の追究

それ以前にも先行形態らしきものはいくつか上演されていたようだが、
ストリップが近代的な興行形態として成立したのは、
戦後になってからであるとされている。
つまり、ストリップの歴史はわずか五十年たらずしかないのである。
にもかかわらず、ストリップというジャンルにまつわる身体のありかたは、
ときによってかなり異なっている。
ストリッパーと称される踊り子たちが
みずからの特異な身体技術についていだいている
意識をはじめとして、いわば思弁的なレベルにいたるまで、
そのちがいがたしかめられるのはおもしろい。
しかも、さらに興味深いことなのだが、
まったく同じ構図はきわめて即物的な地平にも影を落としているのである。


橋本裕之「ストリップ研究ことはじめ」
『歌舞伎の狂言――言語表現の追究』p312-313)

下着はセックス労働の制服


それまでのダンスの動きと齟齬を起こさないように音楽に合わせて
脱衣していく過程はやはりとても面白かった。
布を身体に絡ませながら踊る姿、
そして脱いだ後の衣服が踊り子さんの横に置かれている光景が
強く印象に残った。

一九一〇年代から普及しはじめたブラジャー、パンティー
ストッキング、ガードルといった新しい下着もまた、
ボディーパーツへの愛を助長する力となった。
つまり、新しいセクシーな下着は、
ボディー各部を隠すプライベートな覆いではなくなり、
セックスという労働のための制服として
デザインされだすのだ。


荒俣宏『万博とストリップ』p227-228)

毛皮、扇、手袋、羽根、網目の靴下、要するに、
洋服屋の装身具売り場がそっくりまるごと、
生身の体にたえず贅沢品というカテゴリーを組み込み続ける。
それらの品物は、魔法の舞台背景によって男をぐるりと取り囲む。
(中略)
そしてこんなにも儀式的な品物を取り外すことは、
もうあらためて裸になることからはほど遠い。

羽根、毛皮、手袋は、いったん外された後も
女をその魔法の力のなかに浸し続ける。
優しく包んでくれる豪華な脱け殻の記憶のようなものを、彼女にもたらすのだ。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p244)

現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)

現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)

昔のストリップの踊り子の衣装というのは、
今考えると馬鹿馬鹿しいくらいに大げさに隠してました。
今のストリップなんかはパンツにお金かけてる人なんかいないでしょう。
昔はぎっしりスパンコールをつけてキンキラキンにして、
下に一枚キョロパン履いて、その上に着飾ったものをつけて、
脱ぐぞ脱ぐぞ、といって脱いで、その下に隠しをもう一つつけた。
それをしていないと捕まった。
だから後ろを向いて、お尻を隠して上へ履いていたのを脱いで、
いかに履いていないように見せるかというテクニック。
お客が幼稚だったのかな、逆に。
見えるかな、見えるかな、ということで期待をつないでいた。
そういえると思う。


(話し手吉本力 聞き手橋本裕之「小屋掛けストリップの日々」
見世物小屋の文化誌』新宿書房,1999,p165)

見世物小屋の文化誌

見世物小屋の文化誌

プロの技術は裸を隠す


さて、二部に登場した小向美奈子さんである。
一部の踊り子さんの演技を見た後だとよりはっきり解ってしまうのだが
やはりまだ慣れていない感が否めない。
しかし小向美奈子さんの素人っぽさが
逆にプロのストリッパーのプロらしさを
ストリップ初体験の私に気づかせてくれた。

ダンスは裸体を隠す。
(中略)
こうしてストリップのプロのダンサーたちが、
驚くほどくつろいだ雰囲気に身を包んでいるのが見られるわけである。
そのくつろぎがたえず彼女たちを覆って、
観客から遠ざけ、氷のような無関心を彼女らにもたらす。
自らのテクニックの確実さのなかに逃げ込んで傲然としている。
熟練した現場の人間が見せる無関心さである。
彼女たちの技量が、彼女たちに服のようなものをまとわせるのである。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p245)

そして特に、「技術的」な困難
(パンティ、ドレス、ブラジャーがはずしにくいこと)が、
脱衣の身振りに思いがけない重要性を与え、
女に対して芸術というアリバイや物体という逃げ場を認めず、
彼女を弱さとおびえという状況のなかでしめつける。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p246)


二部は小向さんをかなりフューチャーした演出がなされているようで
小向美奈子ファンにはよかったのかもしれない。
小向さんは二回ソロで踊る場面があったのだが、
一回目は最後まで脱ぐ前に終わり(脱ぐ前に他の女性が止めるという演出)
二回目で上半身が裸になる運びとなっていた。



入替え無しだったので、席を変えて二公演見てしまった。
二回目の席で私の隣に座った白髪頭の初老の方は
ダンス場面は基本下を向いて眠たそうであったが
踊り子さんが御開帳する場面では目を見開いて一生懸命凝視していた。

悪趣味異性観察、楽しくて堪らないよ。
理解不能寄生罵声、今日も張り切って生きますです。
幼稚プレイは飽きました。さらば人口幼少褄(ロリワイフ)
どうせならリアルでしょう?窓際レンズを覗く。


(the GazettE「貴女ノ為ノ此ノ命。」)

斑蠡~MADARA~

斑蠡~MADARA~




タレントがプライヴァシーを要求するとき、きまってあびせられる、
そんなことは承知の上で有名になりたかったはずだ、
という罵声は、この「代償の論理」にこそよっているのである。
代償を必要としたのは、タレントではなく、われわれ自身の方なのだ。
(中略)
われわれはいくつもの論理を駆使して「河原乞食」を差別の対象とし、
差別することでかれらをよろこんでたたえ、
安心して熱狂し得たのである。
(中略)
つまり、彼岸の芸術家でなく、此岸のストリッパーとして見られるのである。


中島梓『ベストセラーの構造』ちくま文庫,1992,p131-132)

ベストセラーの構造 (ちくま文庫)

ベストセラーの構造 (ちくま文庫)

DIR EN GREY「TOUR 09 FEAST OF V SENSES -MALE only-」@CLUB CITTA’川崎

Imamu2009-03-26



とき:2009-03-25

UROBOROS

UROBOROS

そうなんです
死肉が輝いている
朝です


(「手ぶらの通信兵、杖ははじめからなかったけれど歩いて行く・・・・・・」
キキダダマママキキ『死期盲』p81)

死期盲 (新しい詩人)

死期盲 (新しい詩人)

全てを闇に
晴れ晴れしい朝よ皮肉に
―おはよう―
Dir en grey「鼓動」)


Dir en greyは「絶望の夜」や「希望の朝」ではなく
死肉が輝いている瞬間を表現している。そう感じた。


WEB JUICEのインタビュー*1において京が語る
「前向きなことは歌いたくないんですよね。
そうじゃなくて“前向きでないものから出てくる前向きなもの”」
という発現を私なりに考えてみると「死肉の輝いた朝」の光景が目に浮ぶ。
多分、この輝きはとてもキレイで、とても哀しい。



スタッフ「入り口で男性ですと言ってください」


・DJ Boo「一緒にdirを待ちましょう」


ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」が来たときはベタすぎて思わず笑ってしまった。
NINE INCH NAILS「You Know What You Are?」から
Marilyn Manson「Irresponsible Hate Anthem」→Linkin Park「One Step Closer」
への繋ぎが少しだけ盛り上がった。客層を意識しての選曲だろうか?
後は多分Limp BizkitSlipknotあたり。


よく見えなかったが、DJ途中で誰かが乱入してた。
そのときは解らなかったがダイノジ大谷さんが来ていたようなので
それだったかもしれない。
http://ohtani.laff.jp/blog/2009/03/dir-en-grey-in.html
(追記:どうやら乱入したのはダイノジの大地さんのよう
http://ohchi.laff.jp/blog/2009/03/dir-en-greylive.html



会場暗転。SA BIR。前に押される圧力を身体全体に感じる。

京はAdidasの赤ジャージ?


9分以上もある大作「VINUSHKA(ウィヌシュカ)」は
アルバム「UROBOROS」の核となっている楽曲でやはり凄まじかった。

うえつくドグラ、マグラ
Dir en grey「VINUSHKA」)

・・・・・・このドグラ・マグラという言葉は、
維新前後までは切支丹伴天連の使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、
只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない
一種の廃語同様の言葉だそうです。
語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、
強いて訳しますれば今の幻魔術もしくは
『堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)』『戸惑面喰(とまどいめんくらい)』
という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、
いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には
相違御座いません。


青空文庫 夢野久作ドグラ・マグラ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2093.html



「此処が真実だ!!!!!!!!!!!!」


曲も中盤に差し掛かると、もう会場がカオス。モッシュの嵐。
Shinyaの変則的なドラムが素敵すぎる。

実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、
一人残らず精神的の片輪者ばかりと断言して差支えないのである。


(正木敬之氏談「地球表面は狂人の一大解放治療場」『ドグラ・マグラ』より)

太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、
永久に無言の解放治療を続けている。
そうするとその禽獣、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、
永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集である事を自覚し初めて、
宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義とか青い主義とかいう
御叮嚀なものを作って
「お互いに無茶を止しましょう・・・・・・変な真似をやめましょう」
をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、
僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。
「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、
ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ


(正木敬之氏談「地球表面は狂人の一大解放治療場」『ドグラ・マグラ』より)



「価値を見出せず 首縊り十三階段
手を叩き馴れ合う人」

RED SOIL。ヘドバン・モッシュ止まず

「I'll rape your daughter!!!!!!!!!!!!
on your grave!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「I'll rape your daughter!!!!!!!!!!!!
on your grave!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「京ーーーーーーーー」「京!」「京!!!」「京ーーーーーーー」
「あー・・・今日は・・・・・・いけるかー?」

「Fuck off!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「In The Sunーーーーーーーーーーーーー」


お経。殺気のある静寂が会場を包む。



蜷局。暗黒舞踏のような京の動きが印象的。
しかし、この日は声の調子があまり良くなく、最後は歌うことに集中したようだ。

GLASS SKIN。もはや小手先の技術でなく、圧倒的な存在感とパワーで乗り切る京。


お経。確かに京の後ろに神々しいオーラが見える(ライトのせいではない)



OBSCURE。イントロが始まった瞬間に客席がざわめく。
誰かが「神」と叫んだ。

HYDRAー666ー〜CLEVER SLEAZOID。意識が飛ぶ。
柵を越えて前に行く人多数。モッシュ・ヘドバン。


Dir en grey! Dir en grey! Dir en grey! Dir en grey! Dir en grey!・・・・・・」



G.D.S.またもやモッシュ・ヘドバン。

「オーオーオーオーーーオーオー」「オーオーオーオーーーオーオー」
Kiss Me Kill Me Kiss Me Kill Me Love Me Kiss Me Kill Me Love Me

「望まれない?愛でもない? 生まれることの自由に 疑い失うモノがないなら・・・」


「今日はいつもより歌えてるやろ(笑)」


京さん可愛すぎる。萌え死んだ。
さっきは「ここまで噛みついて来い!」って煽ってたのにさぁ。



「Fuck off!!!!!! Fuck off!!!!!! and wipe!!!!!!!!!!!!!!」
「Fuck off!!!!!! Fuck off!!!!!! and wipe!!!!!!!!!!!!!!」

礼・性・乖離
「邪鬼!!!!!!!!!!」
礼・性・乖離
「邪鬼!!!!!!!!!!」

PSYCHO PASTTRAP!!!!!!!!!!!!!!
PSYCHO PASTTRIP!!!!!!!!!!!!!!


by by by by by by DEATH TRAP!!!!!!!!!!!!!

トシヤがダイブ。それを合図にするように各地でダイブ勃発。
スタッフに連れて行かれる人を何人か見た。
残の後薫がギターを投げる。
京が放った聖水(ペットボトルの水)が掛かってすごい嬉しかった。


――――――――――――――――――――――――――


1st Album「GAUZE」収録の「mazohyst of decadence」は
人工中絶される"僕"の叫びを歌った曲である。

愛されない僕はこのまま死んだ方がいい
だから産声を上げず 静かに眠りましょう
Dir en grey「mazohyst of decadence」)

GAUZE

GAUZE


2nd Album「MACABRE」収録の「MACABRE―揚羽ノ羽ノ夢ハ蛹」では
「食べる側」の虫と「食べられる側」の虫の視点で詞が展開される。
(食べる-食べられる関係を恋愛関係に例えている点も注目)

貴方なら許せるわね 残酷な生き物でも
足を地面に忘れたわ 残さないでね
Dir en grey「MACABRE―揚羽ノ羽ノ夢ハ蛹」)

MACABRE

MACABRE


2nd Album後に出たシングル「ain't afraid to die」
死別を歌ったDir en grey屈指のバラード。

四季と君の色やがて消えるだろう
雪は溶けて街角に花が咲き
君が見た「色彩は」そっと溶けてゆく
Dir en grey「ain't afraid to die」)

ain’t afraid to die

ain’t afraid to die


Dir en grey過去の楽曲中、長大曲に分類されるものをピックアップしてみた。
こうしてみると、Dir en greyの歌詞に共通してあらわれるのは
「死」のイメージだということが解る。
ただ、各楽曲にその「死」の赴きは異なる。
「mazohyst of decadence」では生まれてくることすら叶わないものの絶望が、
「MACABRE―揚羽ノ羽ノ夢ハ蛹」では自然界の非情な掟とカニバリズム的エロティシズムが、
「ain't afraid to die」では悲しい別れとしての「死」とその先にある微かな希望が
それぞれ描かれている。


それに比べると7th Album「UROBOROS」収録の「VINUSHKA」では
具体的な物語を語っていないように感じる。
ただただ、圧倒的な感情の塊が、重い重い感情の塊が表出されている。
「鋭く尖る感情に身を任せ」るように。


「VINUSHKA」の後半8分過ぎ
「血しぶく本能踏み潰し死を語る」と言い切った後、
曲は再びトップギアになる。
もはや歌詞カードを見ないと聞き取れないようなデスヴォイス
そして最後にこう叫ぶ。
「俺が悪であるが故に生きる意味さえ罪なのか」


「死を語る」のに直接的な「死」ではなく「生」それ自体の苦痛を語る。
確かにこれは"俺"という一個人の苦悩を歌っているに過ぎないのかもしれない。
だが、これは世界そのものをも歌っているのだ。
なぜなら「人類全部がキチガイ」(『ドグラ・マグラ』)なのだから。


――――――――――――――――――――――――――
セットリスト(多分)
SA BIR
VINUSHKA
RED SOIL
AGITATED SCREAMS OF MAGGOTS


STUCK MAN
GRIEF
慟哭と去りぬ
DOZING GREEN
お経
蜷局
GLASS SKIN
お経
OBSCURE
HYDRA-666-
BUGABOO
冷血なりせば
REPETITION OF HATRED
CLEVER SLEAZOID


――アンコール――
G.D.S.
CHILD PREY
凱歌、沈黙が眠る頃
朔-saku-
羅刹国
残-ZAN-


・今日のBGM

Translating the Name

Translating the Name

手数の多いドラム、ギターリフ、荒々しいベース。
激しさのなかに光るメロディライン。


You Can't Spell Slaughter Without Laughter

You Can't Spell Slaughter Without Laughter

スクリーモエレクトロニカのmix。
Per●umeのかし●かの脳みそを快楽殺人者に代えたらこうなる。


Angel & The Dark River (Dig)

Angel & The Dark River (Dig)

ゴシックメタルの最高傑作。

特集 ペドフィリア『アディクションと家族』25巻2号/ロリータ・ロリヰタ・ロリィタ・ロリコン

Imamu2009-03-06



・サイト;http://www.iff.co.jp/book/adf/a20082/index.html

アディクションと家族 第25巻2号―日本嗜癖行動学会誌 (98)【特集】ペドフィリア

アディクションと家族 第25巻2号―日本嗜癖行動学会誌 (98)【特集】ペドフィリア

社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則を設け、それを特定の人々に適用し、
かれらにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。
この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくて、
むしろ「他者」によってこの規則と制裁とが「違反者」に適用された結果なのである。


H・ベッカー,村上直之(訳)『アウトサイダーズ』1978,新泉社)


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少女が好きな男というのは、男社会に安住していることに気がつかないまま
男社会からの脱出願望をかきたてている男だけだ。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p208-209)

完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば
男の観念のなかにしか存在し得ないであろう。
そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、
観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。


澁澤龍彦『少女コレクション序説』)

さよなら この世界よ 傷付くだけの現実なら
ひとりでも向かいたい 再生の地まで
(中略)
Just like a stupid mind 僕はきっと 今は未完成のオブジェ


(少女-ロリヰタ-23区「未完成サファイア」)

未完成サファイア

未完成サファイア

だけど妄想以外
此の世に
他に
一体何がアルって言うの
(ゾンビロリータ「血液(BLOOD)」)
http://www.interq.or.jp/red/nekoten/zombie/zombie-top.html

死ぬまで一人 トラジックロリータ


ヤプーズ「ロリータ108号」)

斎藤学「特集にあたって――ペドファイルとは誰か?」p104-106

性愛対象とする子どもの年齢からみると
思春期(13〜16歳)を対象とするペデラスティ(pederasty)、
これの緩和型(性愛空想の対象とするだけ)である
エフェボフィリア(ephebophilia)やヘベフィリア(hebephilia)は、
厳密にはペドフィリアから除外される
(症例によっては移行が見られる場合もある)。


・退行型(regressed)-偽神経症性(pseudneurotic)
・固定型(fixed)-原発性(primary)

ペドファイルの自己像は「傷つけられた子ども」であり、
子どもたちを理想化し、その子どもたちに自分の性的欲求を投影させることで
自己の脆弱性と怒りを乗り越えようとしている。

つまり、ペドファイルは自らの「子ども性」の維持にエネルギーを使う人、
さらに踏み込んで言えば「親に抱擁される感覚」を渇望している人ということになる。

『子どもは非性的な存在であり、『性的潜伏期』である』とする考え方は、
イギリスのヴィクトリア朝時代(ヴィクトリア女王の在位一八三七年から一九〇一年)の
性を抑圧し、忌避する傾向の影響だと考えられる。
(中略)
また、「健康な子どもの好奇心は、性的な主題に向けられることはめったにない」や
「子どもは性について何の感情も考えももたないのがいい」といった言説に裏付けられた
「ロマンティック・チャイルド」、つまり「純真無垢」な子ども観もこの時代につくられたものである。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p169)

援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)

援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)

ペドフィリアは精神医学でいう性倒錯(パラフィリア)の一種で、
幼児に性的な欲望をもってしまう性癖を指す。ペドフィルとはそうした性的嗜好をもつ人のことで、
日本語では幼児愛好者や小児性愛者と訳される。
ペドフィルには男性と女性のどちらもが存在し、先天的な者と後天的な者に分けられる。
後天的なペドフィルはしばしば成人への劣等感から、優位に立ちやすい幼児を狙うとされる。
一方、先天的なペドフィルは、真性ペドフィリアとも呼ばれ、精神の未成熟や幼少時代への回帰願望から、
その人間の精神年齢と同じくらいの幼児を性的対象にするとされる。
また、ペドフィルは男児と女児いずれも愛好の対象とする場合が少なくない。
しかし、いちばん多いのが、男性のペドフィルが女児を対象とするケースだ。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p161)

斎藤環「メディアとペドフィリア――ロリコン文化はいかに消費されたか」p107-112

日本における特殊事情を考えるなら、精神医学的な正確さはともかくとして、
ペドフィリアロリコンの慣例的区分について無視するべきではない。


ナボコフ『ロリータ』
ラッセル・トレーナー「ロリータ・コンプレックス

ロリータ・コンプレックス (1974年) (太陽選書)

ロリータ・コンプレックス (1974年) (太陽選書)

澁澤龍彦「批判的読み替え」


吾妻ひでお:1979年ロリコン同人誌『シベール』

つまり、ロリコンポルノのブームは、青少年の性的嗜好の変化に先導されて起きたものではなく、
パロディやユーモアといったメタ的な身ぶりにおいて見出され、
それに性的嗜好の変化が追随したとみるほうが事実に近い、ということになる。

そこでは『異世界』の美少女への耽溺が、
プロレスやアイドルの『追っかけ』と同等の一種の『B級指向』として自負されていた


宮台真司,石原英樹,大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体』ちくま文庫,2007)


日本社会において「ロリコン」が定着し始めたのは一九八〇年代前半だが、当時は、
ロリコンとは十二歳から十五歳程度の少女を対象に性的興味をもつ男性のことを指していた。
なかには、少女の年齢で区分され、七歳から十二歳程度を「アリコン(アリス・コンプレックス)」、
七歳以下を「ハイコン(ハイジ・コンプレックス)」とする区分も存在した。


(圓田浩二『援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会』洋泉社,2006,p160)

ロリータブームは1978年の少女写真集「リトルプリテンダーズ」のヒット、
そして同時期に漫画やアニメのマニアの間でも
作品に出てくる少女を愛好する風潮が高まったことから、80年代に一気に表面化した。
陰毛の生えていない少女のワレメは性器ではない。だから、無修正のロリータヌードは違法ではない。
今、考えると確実におかしい論理だが、陰毛=エロという状況であった日本のエロ業界では、
それなりに納得されるロジックでもあった。
(中略)
このロリータヌードブームを支えていたのは、真性のロリコンだけではなく、
無修正で性器が見られるならと、
成人女性ヌードの代用で見ていた層も相当数いたと思われる。


安田理央,雨宮まみエロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』翔泳社,2006,p25)

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)

エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)

実質的なロリコン漫画ブームは、商業誌ではせいぜい
82年〜84年の二年間程度のものにすぎなかったが、
漫画絵・アニメ絵の愛らしい少女キャラクターという図像はそのまま継承されていく。
ロリコン漫画ブーム衰退の理由は単純に
読者にも作者にもホンモノの幼児性愛者がほとんどいなかったからにすぎない。


(中略)


このロリコン漫画衰退期に二人のキー・パースンが登場する。
一人目は若手編集者だった大塚英志だ。
大塚は当時、劇画誌として創刊されながら、まったく数字の出せなかった
漫画ブリッコ』(白夜書房)の編集長に就任し、彼のいう「美少女まんが誌」へと大改造を行う。


(中略)


フリーだった大塚は同誌と並行して、執筆者がほとんど重なるエロ抜きのアンソロジー・シリーズ
「プチ・アップルパイ」(徳間書店)の編集にも携わり、新しい感覚の漫画とその作家たちを売り出していく
(大塚の、「同根の商品をアダルトと非アダルトに分割しつつ同時進行させる」という戦略が、
90年代後半に、今度は大手資本による「萌え」と「抜き」の分離という形で反復されることになるのだが、
その点については後述しよう)。


永山薫エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』イーストプレス,2006,p74-75)

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門



ペドファイルロリコンの構造
・おたくとメディア

言い換えるなら、倒錯者は幼児期の多形倒錯の名残ではない。
彼らはいったん、「正常」な性的発達過程を経て、
すなわち「去勢」の段階を経た後に、虚勢の現実を否認するのである。
かくして倒錯者においては、「心的分裂」のもとで二重の態度が共存することになる。


大塚英志まんが・アニメ的リアリズム

自律した虚構空間にあっては、そこに投影される欲望も、
なかばは必然的に倒錯の要素をはらむだろう。
なぜだろうか。その空間にあっては、いかなる表象物も「象徴的去勢」を被らず、
むしろ自動的に「去勢否認」的なドライブを発生してしまう。
加えて、そこが虚構空間であるという意識が、フロイトの言う「分裂」を維持しやすくなる。

おたく達は、そうした空間の中にあって、
みずからのセクシュアリティを自由に再構成することができる。

彼らほど虚構の虚構性に敏感なものは少ない。
彼らはまた「純粋な虚構」や「純粋な現実」などありえないことを、誰よりもよく知っている。

補足:斎藤環氏が指摘していない日本におけるもう一つのロリータについて

日本で独自に生まれたロリータ達にとって、ロリコンは最大の敵です。
ロリータのお洋服や姿形は、"少女性"をデフォルメしたものであるともいえますから、
ロリコン達はロリータに卑猥な感情を抱きます。多くのロリータ達が、
危険なロリコンの男性に拠って拉致されそうになったり、妄想の中で穢されます。


ロリータ達の大半は、現実世界の性的欲望に生理的嫌悪を憶えているのです。
従って、身体性に抗うような観念的なフォルムのお洋服を身に纏い、人工美を極めようとするのです。


嶽本野ばらロリヰタ。』新潮社,2004,p14)

ロリヰタ。

ロリヰタ。

ロリィタ」の少女が実践している「少女趣味的」であること(「かわいい」)と、
大人が期待し社会が命令するような「少女らしさ」「女の子らしさ」とは
別物であることを痛感した。


(水野麗 "「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱――「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー"
『女性学年報』25,2004)

私たちは、日常生活を支配するさまざまな政治力から自由になりたくて、
ロリータという祝祭を求めている。
だからこそ、そこに入り込んでこようとする
「性的な視線」という権力を認めるわけにはいかないのだ。


(松浦桃『セカイと私とロリータファッション』青弓社,2007,p185 )

セカイと私とロリータファッション

セカイと私とロリータファッション

私には彼女たちが「女」であるという前提はそのままに、
むしろ性にまつわる「らしさ」、
まさにジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化を行なっているように見える。


(水野麗 "「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱――「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー"
『女性学年報』25,2004)


――ロリータ・ギャル――

「ロリータとギャルの共通点と相違点を簡潔に述べるなら、
どちらもフィギュア・コンプレックスに支配されていながらも、
その対象となるフィギュアが異なるということです。


ロリータの場合、模倣するフィギュアは『不思議の国のアリス』のアリスです。
一方、ギャルの理想はバービー人形にあります。
実際、ロリータの究極のモチーフはアリスにあり、
アリスをプリントしたアイテムは、必ずヒットします。


ギャルの場合、バービーというアイテムが前面に押し出されることは
ロリータに比べると少ないですが、
ギャル服のパターンを検証していくと、
最終的にバービーの存在に行き当たることは、すぐに理解出来る筈です。


ロリータもギャルもデフォルメされた身体、
人工的な身体を志向するフィギュア・コンプレックスを抱えている。
同じフィギュア・コンプレックスを持ちながらも、
アリス・コンプレックスであるか、バービー・コンプレックスであるかで、
正反対のベクトルを有しているように見える」


嶽本野ばらロリヰタ。』新潮社,2004,p20)


――ブリッコ――

また、ブリッコの特徴は自分で自分のことを
「お母さん、もっとゆっくりあるいてよ。リカちゃん迷子になっちゃうじゃない」などと、
自分で自分の名を呼ぶことです。
これは常時メタ意識を発達させ、強固にしていることを窺わせます。
常に自分を第三者敵視点からモニターしているわけです。
とすれば、あの独特の演技的なかわいさもメタ意識による演出だと考えられますし、
その結果相当美意識も発達させていると想像されます。


(中略)


さらに、このタイプの子ども達は常に第三者的視点で客観化能力を高めているためか、
どこかクールで計算高いところがあります。
そのせいか、かわいいので近付いてゆくと意外と人間的に冷たくて、
ドキッとさせられる場合があります。


須原一秀『超越錯覚――人はなぜ斜にかまえるか』1992,新評論,p31)

磯崎由美「『加害者』を作り出すもの――子どもを狙う性犯罪の取材から」p113-117


2004年3月、群馬県高崎市の小学女児殺害事件。
被告Bの自筆文書「性犯罪に遭わないために犯罪者から考えること」

「弱い者は“強さ”“弱さ”に敏感です。
自分の気持ちをハッキリ言えるように育てられた子どもは私たちには脅威です」
「“大人に怯える憶病者”なのです。その心理を逆手に取った防犯対策を考えてみて下さい」




しかし、最近の事件を追っていくと、「社会の底辺にいる傷ついた弱者」
という構図には収まらない人たちの存在を感じる。

彼らが前述した古典的なペドファイルと大きく異なるのは、
その多くがネットワークを形成していることだ。
そこで結束を強めるツールとされているのが、児童ポルノの画像である。

「加害当事者との対談:「やめたい」と思う自分はいたが、歯止めになるものがなかった」p118-127

はい。あの、ぜひ私みたいな人間が1人でも少なくなるように・・・・・・。よろしくお願いします。




「そうだよね、いままで大勢の少女に会ったけど、
ぼくの欲望に火をつけるのは、そのうちの何人かだけだ。
大人の女が男の欲望に火をつけるのと全く同じだよ。
あるいは、一人の女が、ある特定の男にしか心を動かされないのと同じだよ。
そそられるのは、ある特定のタイプだろ?
だけど自分の好きな子どもと一緒にいるだけで楽しいよね。
ぼくはしょっちゅうそうしてるよ」


どうやら彼は、性器への挿入という直接的行為さえなければ、
子どもと一緒にすごしたり触れ合ったりして性的満足を得ることが、
醜悪なことでも一線を越えることでもないと考えているようだった。
とにかく彼は、自分のしでかしていることがすでに犯罪だとは思っていないようなのだ。


だが、もしかすれば、彼の言う通りなのかもしれない。
ひょっとしたら、調和に満ちた子どもと大人の性的関係――なるものが存在するのかも知れない。
それは、ぼくにはまだ分からない。


(Jacob Billing(著)中田和子(訳)『児童性愛者――ペドファイル解放出版社,2004,p22)

児童性愛者―ペドファイル

児童性愛者―ペドファイル

それが、獲物に食らいつき、子どもたちの肌にむしゃぶりつく様子に由来するのか、
男から発散している何か吐き気をもよおさせるものに由来するのか、
わたしには分からないが、ある日、子どもたちは自分たちが男をどう呼んでいるか話してくれた。
「ワニ男」だと。そう、子どもたちの言うとおりだ。「ワニ男(クロコダイル)」。


(Marie-France Botte(著)Jean-Paul Mari(著)堀田一陽(訳)
『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p71)

子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間

子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間

「オープンに自分の気持ちを話せれば、解放された気分になるよ。
君だろうが、ぼくだろうが、協会の他の人だろうが、何に欲望を感じるかは、ぼくらのせいじゃないよ。
ぼくは今まで一度もしたことがないが、誰かを傷つけない限り、
ぼくたちのように感じるのがそんなに悪いことだとは思わないよ。
それに誰だって、自分の好きな人、愛している人に危害を加えるなんて、当然しないだろう?


(Jacob Billing(著)中田和子(訳)『児童性愛者――ペドファイル解放出版社,2004,p23)

「昨夜は八歳の男の子でした。ここで働いている子で、愛着を感じたな。
性的にもずいぶん成熟していたよ。数時間、一緒だった。おわかりですよね、
一晩中は引き留めなかったんですよ、カバンから何か盗まれても嫌ですから」
(中略)
「とっても面白そうね。でも、あなたタイ語できるの」
「少々。初級程度なら。でも、子どもってのは、愛を欲しがっているんで、
言葉のやりとりじゃないから」
(中略)
フランス人建築家は調子にのって、話をつづけた。
「ここでは、子どもはかなり幼いころから性的に成熟する。八歳、いや十歳かな。
そこでからだを提供する。つまり、売春する。彼らには経済的な価値があるからね。
でもそれだけじゃない。大人は子どもを痛がらせずに肉体的に愛することができるんだ。
新聞って奴は何でも書くよ。ヨーロッパでは子どもとのセックスは虐待と見なされる。
恐ろしいことだ。もっと違うものがあるんだ。おわかりですよね、それが新しき愛なんです」
(中略)
「あなた、フランスでお子さんたちとも、そんな愛の関係を結ぶこと、想像できて?」
「いやぁ、とんでもない・・・・・・。でも、残念だな。だって、わたしたちは本物の関係から外れていますから。
(中略)
あなたに子どもができたら、タイの父と子の関係がもっとよく理解できますよ。
父親との間に性的関係を見いだすことよりも、
小さい女の子や男の子にとって、もっと安心感を与えるものって何だと思います?
それを引き受けるものこそ外国人だという考えのほうが当然だと思いませんか」


この男は何不自由ない家庭で育った。最高の大学で学び、子どもも生まれた。
わたしには、どうしてもこの男が理解できない。


(『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p86-87)

「そいつは、ぼくの上に乗ってきた。ぼくは大声を出した。痛かったから。
でも、誰も助けに来なかった。そいつは口をふさいで声を出なくしたんだ。
終わったあとも、ずっと腹ばいになっていた。動けなかった、腹がすごく痛かった。
目をさますと、そいつはいなくて、テーブルにお金があった」
(中略)
「あいつら、吐き気するようなことやらせるんだ。マスターベーション手伝わされたよ、口でね・・・・・・。
痛いし、もっと悪いことに、あいつら、ぼくらがそれを好きなんだと思っている。男なんて大っ嫌いだ」
ノイは目を閉じて、言った。
「大きくなったら、女の人と結婚して、きれいな家に住むんだ」


(『子どものねだん――バンコク児童売春地獄の四年間』社会評論社,1997,p95)

海外文献 デイヴィッド・フィンケルホー 加害者『児童性虐待――新たな理論と研究』第4章(全訳)p128-144

性的虐待者の文献で最初に行き当たるのは、加害者の動機が性的なものであるか否かをめぐる議論だ

セックスは常に性的ではないニーズを満たすために利用される


・性虐待と精神病理

従来の性虐待についての理論の特徴は、文献を読めばはっきりする。
精神病理を強調している理論が多いのだ

虐待が蔓延しているという実態を見れば、
精神病理のみを強調する理論からは遠ざからずをえず、
ノーマルな要因が関与していると考えざるをえない


・要因1:情緒的一致(emotional congruence)

実際のところ、成人女性より子どもの方が
男性中心的文化の期待に「フィット」するのだ


・要因2:子どもに対する性的興奮


・要因3:成人との性関係のブロック

成人との性関係ブロック論についての検討から、
これらの理論はさらに2つのタイプに分類できることがわかる。
発達型ブロック論と、状況型ブロック論の2つである。


・要因4:脱抑制


・虐待被害者は加害者になるか?


――性的関心の排他性と強さ――
性的指向型―固着型―情緒的一致論による説明
・状況誘発型―退行型―成人との性関係ブロック論による説明

加害者の類型論には、別のアプローチもある。
固着型と退行型という2つのカテゴリーではなく、
連続性のある二次元軸が想定され、
すべての加害者はそのどこかに位置づけられるという考え方である

1.子どもに対する性的関心の強さと排他性は区別可能であり、別々に扱う必要がある


――近親姦加害者とペドファイル――
・個別論(近親姦加害者とその他の子どもに対する性的虐待者を異なるグループとして扱う)
・統一論(近親姦加害者を子どもに対する性的虐待者の一部として扱う)


ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ

ロリータ

『ロリータ』を例にあげよう。これはどこにも行き場のない十二歳の少女の話だ。
ハンバートはロリータを自分の夢見る少女に、死んだ恋人に仕立てあげようとし、
彼女の人生をめちゃくちゃにした。
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による
十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。
(中略)
実はナボコフの小説は、ハンバートのように私たちを自己の意識の産物に変えようとする者たちへの報復ともなっている。
(中略)
ナボコフはハンバートを描くことで、他者の人生を支配するすべての唯我論者の正体をあばいたのである。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p53)

テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

――ドロレス=痛み――

まさに冒頭のページで、ハンバートはそれぞれちがう場面で使われる、
彼女のさまざまな名の一部をあげる。
ロー、ローラ、そして彼の腕の中ではいつでもロリータ。
彼女の本名がドロレスであることも知らされる。
スペイン語で「痛み」を意味する言葉だ。
(中略)
読者は直接にではなくハンバートを通して、
彼女自身の過去ではなく語り手/性的虐待者の過去あるいは想像上の過去を通して、ロリータを知る。
これこそハンバート自身が、多数の批評家が、そして私の学生のひとりニーマーがいう、
ハンバートによるロリータの「唯我化(ソリプサイゼーション)」、
すなわち他者を自己の意識の産物としか見ない態度である。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p58)


――ロリータイメージ・ハンバートの視線――

ロリータのイメージは、読者の心の中で永遠に彼女を軟禁する看守のイメージと結びつけられる。
ひとりでいるロリータに意味はない。彼女は牢獄の格子を通して初めて人の興味を惹く存在になる。
(中略)
私たちを深く結びつけていたのは、犠牲者と看守のこの理不尽な親密さだった。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p59)

ハンバートはシャーロットのそうした内面を見ていない。
いや、見ることを本能的に避けていると言ったほうがいいだろうか。
それは、幻想のロリータだけを視野に収めて、
その背後にいる本物のドロレスという女の子をあえて見まいとしているのと同じ態度である。
だから、わたしたち読者がハンバートの語りに酔っているかぎりは、
シャーロットという女性の本当の姿も見えてこない。
共感すべきあわれな女性ではなく、愚かな中年女だとしか映らない。
ハンバートの病は、こうしてわたしたちにも伝染する危険がある。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,p246)

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだと私は言った。
それは最愛の人、ロリータに対しても同じである。
ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p75)


――詩人ハンバートと犯罪者ハンバート――

ここまでは、犯罪者ハンバートが詩人ハンバートの助けを借りて、
ロリータと読者の両方をまんまと誘惑できたように見えるだろう。
ところが、その実、彼はその両方に失敗する。
ロリータの場合、彼女に進んで体をあたえさせることにはついに一度も成功せず、
そのため、愛の行為はそれ以降いっそう残酷な、汚らわしいレイプと化す。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p67)

要するに、ハンバートがわたしたちの目の前に提示するものは、
ニンフェットという幻想の中でとらえたロリータと同様に、
オリジナルからは確実に歪んだコピーにすぎない。
わたしたち読者は、
そうしたハンバートの織りなす虚構の裂け目からちらちらとのぞく、
「現実」あるは「真実」を読み取らねばならないのである。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,p229)

ハンバートの散文は、時として恥知らずなほど凝りすぎた文体になるが、
これは読者を、とりわけ高尚な読者を誘惑するのが狙いである。
彼らはそうしたペダンティックな知的芸当にだまされやすい。
ロリータはみずからを守る術もなく、
自分の言い分をはっきり述べる機会すらあたえられることのない、そういう類の被害者である。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,p64)

これをさらに言い直せば、ハンバートの文章を「美しい」と思うのは、
幻想の中でとらえた「我がロリータ」をハンバートが美しいと錯覚しているのと、
きわめて近い関係にある。
ハンバートのロリータではなく、生身のドロレスは、
身に纏わされた幻想のアウラを剥ぎ取ってみれば、ごく普通の女の子かもしれない。
そして、その幻想にある程度まで酔うことなしには、この小説を読めないのもまた事実である。
しかし、それはあくまでもある程度までの話であり、
全面的に酔うことは危険だし、罪であるとすら言ってもかまわない。
なぜなら、ハンバートの罪は、ありもしないロリータという幻想に酔いしれたことにあるのだから。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,P266)




初めて『ロリータ』について話しあったあと、私は興奮してベッドに入り、
ミートラーの質問のことを考えた。
『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』はなぜこの上ない喜びをあたえてくれるのか。
こうした小説自体に問題があるのか、
それとも私たちに問題があるのか――フロベールナボコフは心ない人でなしなのか。
(中略)
あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。
私はもったいぶってそう断言してみせた。
形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。
だからこそ私たちは『ボヴァリー夫人』を愛してエンマのために涙を流し、
無作法で空想的で反抗的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ『ロリータ』をむさぼり読むのだ。


(Azar Nafisi(著)市川恵里(訳)『テヘランでロリータを読む』白水社,2006,P73)

読者がハンバートの語りに酔い、彼に同調するならば、
ハンバートはたとえどれほどグロテスクであれ究極的には愛を歌い上げている
ロマンティックな詩人に映るだろう。
ところが、彼の語りを冷ややかな醒めた目で見て、
どこまでもいわゆる「信頼できない語り手」として距離を置くならば、
ハンバートはとんでもなく身勝手な男であり、レイピストであり、
唾棄すべき怪物としか映らないだろう。
わたしたち読者は、いわば両方の目をあけていると、
このハンバートの両極端なイメージを同時に視界にとらえることになる。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社,2007,P266-267)

●●●●●●●●●●●●●●●●●

少女が好きな男というのは、男社会に安住していることに気がつかないまま
男社会からの脱出願望をかきたてている男だけだ。


「あんたの自己矛盾と俺となんの関係があんの?」としか思わない。
私は男社会に属さない男だから、そういうものは関係ないのだ。
私は少女論を書きたいほど変態じゃない。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p208-209)

男性としての特権を捨てるつもりはないが、
空想の中で気持ちよくされる側に廻ったって、誰もわからない。
トランスセクシュアルやトランスヴァスティズムを奥深いところで
内包しているかもしれないが、切実に女性になりたいとか、
女の服装をしたいというわけではない。


性同一性障害を抱えている人からすれば身勝手な男の都合のいい妄想だろう。
だが、妄想とはそもそも身勝手で都合のいい空想のことなのだ。


永山薫エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』イーストプレス,2006,p146)


――〈男〉――

男たちは個々の具体的な行為を通じて、つねに〈男らしさ〉を
その場その場で再生産し続けることを強いられる。
こうして男たちは〈男らしさ〉にこだわり、それに縛られ、
そこから脱出できない状況がつくり出されていく


伊藤公雄『「男らしさ」という神話』2003,日本放送出版協会)

ジェンダーアイデンティティは存在しないといったほうがよいだろう。
あるのはジェンダーを描写するためのスケジュールだけである


(E.ゴッフマン(著),石黒毅(訳)『行為と演技――日常生活における自己呈示』)


――〈女〉――

という訳で、近代以後の男達は、
癒着して判然としなくなってしまった"自分"というものを照らし出す為に
"女"という偶像を据えるのだ。


"女"という役割が決してマイナーにはならないのは、
その役割の中に"救済者"というものが含まれているからだ。


そして勿論、聖なるものは賤なるものなんだから、
女という崇高なるジェンダーを持ったものは、女の肉体なるマイナーな性を持つのだ。
男社会に"何か"を分断されている女は、勿論、個人的には男というものに分断されて、
聖と賤の両極端に引き裂かれている――しかも今や"明確に"ではなく、"曖昧に"。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p207)


――髭の生えた少女――

しかしそれにしても、男はどうして少女が好きなんだろう?
答は勿論決まっている。少女が好きな分だけ、その男は少女に近いからだ。


男は少女に近づけば近づくほど、自分自身の地位を危くされる。
だもんだから、平然と少女のまんまでいる"少女"が好きなんだ。
自分のことをなんとかしてくれるんじゃないかと思って。


しかし、少女はなんにも救わないんだって。
人を救いたがる女は"オバサン"というもので、そしてオバサンというものは、
自分がオバサンでしかないことにコンプレックスを持ってるものなんだから。


男は、過剰に性的になると少女に近くなる。
でも少女というものは決して性的になろうとしないものだから、
そこで誤解が生まれるんだ。


少女は不思議に傷つくし、男は自分の外側に謎を発見するし。
しかし、本当の謎というのは、そんなにも易々と、男が少女になってしまって、
そのことを一向に自覚しないでいることだ――男のくせに。
その内きっと、世界は美しくない髭の生えた少女で一杯になってしまうだろうし。


橋本治「迷宮の中の家出少女」『少女論』青弓社,1988,p216)


●●●●●●●●●●●●●●●●●

さよなら この世界よ 傷付くだけの現実なら
ひとりでも向かいたい 再生の地まで
(中略)
Just like a stupid mind 僕はきっと 今は未完成のオブジェ


(少女-ロリヰタ-23区「未完成サファイア」)

だけど妄想以外
此の世に
他に
一体何がアルって言うの
(ゾンビロリータ「血液(BLOOD)」)

My dady made me ストイックレディ
それでも好きと言って欲しかった
鉄のVirgin ストイックロリータ
My dady made me トラジックレディ
残酷すぎる パパは博士(ドクター)
死ぬまで一人 トラジックロリータ


ヤプーズ「ロリータ108号」)


――関連する以前の日記――
沙村広明,原画展「娘達への謝罪」/年齢=記号。準リアル児童。ジュニアアイドル - 死に忘れましたわ
ジョック・スタージス写真展(ときの忘れもの)見て,U-15アイドル見て - 死に忘れましたわ
「性-記号」or「性/記号」-「エロマンガ is Dead(or Alive)special issue 2007」の断片 - 死に忘れましたわ

Sugar First ONE MAN TOUR 2008-2009【add】@東京キネマ倶楽部

Imamu2009-02-04



とき:2009-02-01
サイト;http://sugar-ant.com/top.html
ブログ
http://sugar-ant.com/blog/loki/2009/02/post_142.html
http://sugar-ant.com/blog/sizna/2009/02/20090203_sizna.html
http://sugar-ant.com/blog/shingo/2009/02/post_53.html
http://sugar-ant.com/blog/atsuto/2009/02/post_125.html

致死量に満たない毒なんて 要らない
(Sugar「咎人の空(mental sketch modified)」)


Live DVD『A new cradle』はカットされている部分が多く、歯痒い思いをした。
1st Full Album『SWEETEST』はアルバム全体が好きだと言える出来で満足した。
そして・・・



序盤『SWEETEST』の曲を中心に展開、しかも曲順までアルバムに酷似しており
意外だったが『SWEETEST』は個人的名盤なので全く問題ない。

プログレ好きなのかな?と思わせる艶のある演奏だった。
ゲストでヴァイオリン、キーボード、サックスが入っていたのでそう感じたのかもしれない。
インスト曲「Spain」は特に楽器隊の趣味を反映しているのだろう。

地味な曲が多くどうしても棒立ちになりがちで
deadmanのライブでスローテンポの曲が続いた後に
「激しい曲行くからみんな起きて下さ〜い」と言われたことを思い出す。
Sugarにおいては「自腐」「ベリー」が目覚めの曲になる。

SIZNA「セトリ間違えた」
SIZNAさんのギターがすごい。MCの奇人ぶりも含め。

ベース真悟デザインのアクセサリー宣伝。やたらウザがられてたのが印象深い。

その声に腐っていく 腐っていく 今もただ
(Sugar「Sleepy」)

降っている/部屋の中の腐った雨は、遠い
昔に降ったものだろうけれど、たぶんわた
しが体温を得、泣く、時のにおいでもある
のだろうと、ひとりで、部屋が夜に腐り、
再生する中で目にする
最果タヒ「術後」)

グッドモーニング

グッドモーニング

アンコールで「Sleepy」「白日に抱かれた愛しき影」を演奏してくれてよかった。
この曲はメロディーもSIZNAさんのギターも大好きだ。

降り注ぐ雨に濡れていよう もう言えない 癒えないから
(Sugar「消えない雨筋」)

・・雨が降らない梅雨があります。ただ、そ
れでもわたしの手首は育つのでたいへんきた
ないことだとおもうのです。
最果タヒ「暴走車を追いすぎて、」)

「消えない雨筋」は今回はなし。残念であった。

ただ沈んでゆければ ほら何も 何も無い
目の前に浮ぶ全ては 中身の無い 殻だけなのに
(Sugar「骨と翅」)

わたしは光合成ができない
名前を呼ばれても振り向く首がない
そうして
わたしは少しずつ失っているのだ可能性を
最果タヒ「再会しましょう」)

いつまでもうがいをつづける、いつまでも黙り続け、いつまでも、そうすれば病気にはな
らない。いつまでもうがいをしていつまでもひとりでいる、脅威は足の裏でつぶしてしま
った。わたしたちはだから脅威になるのかもしれない。
最果タヒ「世界」)


SIZNAブログよりset list
多分当日は「10.男娼と黒猫」を飛ばしてる


1.malicious
2.Blossom
3.苦悩と憂鬱に溺れて
4.swim like a butterfly
5.骨と翅
6.凍え揺れる炎
7.咎人の空
8.麝香漂う中で
9.rotten words for dear
10.男娼と黒猫
11.antlion
12.Memento-Mori
13.悲しみに眠る陽だまり
14.JAM
15.媚薬
16.afterglow
17.Candy
18.自腐
19.ベリー
en1 Spain(チック・コリア)
en2 Sleepy
en3 in pain
en4 Snow White
en5 白日に抱かれた愛しき影
en6 吐息めく湿度
en7 月に啼き朝を哂う花と

ニセモノの自殺映像、ホンモノの死体映像、擬似スナッフ・フィルム(殺人映像)

Imamu2009-01-18

もう中学生「君をむごったらしく殺すところをビデオに収めるんだからさ〜…!」
狩野「ス、スナッフゥ〜! スナッフゥ〜!!」


(狩野英孝「レッドカーペットのレッドは血の色ってことか…!」:VIPPERな俺)
http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-1566.html

スナッフとは、形の変わりやすい恐怖の想像物だ。
(『キリング・フォー・カルチャ』p319)

スナッフには人の心を暗くする力がある。
(『キリング・フォー・カルチャ』p320)

スナッフとは、究極が退廃、存在しないことを証明できないがために存在しなくてはならないバケモノである。
(中略)
スナッフとは、メディアが大衆のモラルをくすぐるための手段である。
そのようなフィルムなどかつてどのような場所であれ、どこからも見つかったことがないのに、
メディアはこの作り話を事実として見境もなく育て上げ、助長し続けている。
おそらく、そうすることで――繰り返し潜在的な貨幣価値を語り、市場の可能性を予測することで――
いつの日かスナッフを紛れもない商品に変えてしまうだろう。


(David Kerekes, David Slater『キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像』フィルムアート社,1998,p322)

キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像

キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像

  • 作者: デヴィッドケレケス,デヴィッドスレイター,David Kerekes,David Slater,菊池淳子,とちぎあきら
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 1998/02/01
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<スナッフ・フィルム>なる名称が一般に知られるようになったのはいつごろからだろう?
おそらく日本では、『スナッフ』なる映画が公開されて、
かなりの話題を博したのがきっかけだったのではないかと思う。
ぴあから出ている『シネマクラブ』によれば、
七六年に政策されたこのアルゼンチン映画はほぼこんな内容だ。
SM映画の撮影現場。監督がセックスを強要する。
女が拒否すると、男は怒り、女を電動ノコギリで刻みはじめる・・・・・・


(中略)


言うまでもなく<スナッフ・フィルム>とは、
実際の殺人そのものを撮影した究極の色物、ゲテモノ映画である。
この場合、殺人は、殺人現場に遭遇した人物のカメラで偶然に写し取られるのではなく
(これだとドキュメンタリーになる)、
映画に撮影することを目的として意図的になされなければならない。
なにしろ内容が内容なので、一般の市場に出回ることはもちろんなく、
当然、その実在は確認されていない。
にもかかわらずそれにまつわる噂だけは絶えない、というわけで<スナッフ・フィルム>は、
「消えたヒッチハイカー」や「電子レンジで加熱された赤ん坊」同様、
いわば都市伝説的な存在だと見なされている。


(Yaron Svoray,Thomas Hughes,浜野アキオ(訳)『スナッフ・フィルム追跡』扶桑社,2000,p401-402)

スナッフ・フィルム追跡 (扶桑社ノンフィクション)

スナッフ・フィルム追跡 (扶桑社ノンフィクション)

  • 作者: ヤーロンスヴォレイ,トマスヒューズ,Yaron Svoray,Thomas Hughes,浜野アキオ
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2000/06
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「せんずった時に切断痕をヌップヌップしゃぶりながらイチャイチャしてぇ〜」


(星島被告の書いていた同人誌やmixiが続々発掘される! | うらたん)
http://uratan.jp/hotnews/2009/01/7625/

検察官「その女性をどうしようと思ったのですか?」
星島被告「自分の部屋に連れてきて、性的快楽を与え続け、
自分の思うようにしようとしました。自分ならできると思いました」
検察官「(東城さんを)何にしようと思ったのですか?」
星島被告「『性奴隷』です」
検察官「『性奴隷』とは何ですか」
星島被告「私とのセックスに依存し、私を必要に思うような女性です」
検察官「そのためには何をするつもりでしたか」
星島被告「セックスをして調教しようとしました」
検察官「どうやってセックスしようと思ったのですか」
星島被告「女性を自分の部屋に連れて行き、長い時間かけて調教しようとしました」


(【神隠し殺人初公判(11)】「警察に訴えられないようセックスで調教しようとした」
身勝手な論理を展開(14:00〜14:15) (2/4ページ) - MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090113/trl0901131601019-n2.htm

彼らに「何故、人殺しをしたか」ときけば彼らはただ「殺したかったから殺した」とか
或は「ただふらふらと殺したくなったからやっつけたんだ」と答えるのである。
即ち「殺人の為の殺人」を行う手合で、まことに物騒千万な人達であり、
犠牲者こそいいめいわくと云いたいようなものだ。
怨みの為に殺される人、金をもっていて殺される人などは、
仮令(たとえ)自分達に責任はないにしろ
一応犠牲者の方にも殺される理由があるのだが、
殺人狂の被害者に至っては、まったく出たとこ勝負、
偶然中の偶然、殺人狂に出会したのが一生の不運というより外云いようがない。


青空文庫浜尾四郎「殺人狂の話――欧米犯罪実話」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000289/card47762.html

『RARE -レア- 人間であったはずの肉塊』――死体映像集

(200X年某月某日)
タイ・バンコクで撮影した死体映像集。90分。


・交通事故の死体は肉体がグチャグチャになっているものが多い
・交通事故にくらべると意外と殺人による死体は肉体の損傷が少なく見た目の悲惨さはない
・レイプ殺人の死体に戦慄した。肉体的には綺麗なのが余計に気持ち悪さを誘う。吐きそうになる
・初めて見るのに、見たことがある感覚。撮影者「釣崎清隆」のクレジットを見て納得する。
・事前に釣崎清隆の著書を読んでいたから、この映像に既視感をおぼえたのかもしれない。


警察が淡々と作業する様子は映像としての快楽が全く発生しない。
ホンモノの死体がそれだけで面白いとは限らない。

死体に目が眩んで―世界残酷紀行

死体に目が眩んで―世界残酷紀行


●関連する日記
『死化粧師オロスコ』上映イベント and 釣崎清隆 x 松嶋初音トークショー - 死に忘れましたわ
死体の丁寧な処理シーンをみたい場合は『死化粧師オロスコ』がお薦めである。

死化粧師オロスコ [DVD]

死化粧師オロスコ [DVD]

映画『東京残酷警察』――スプラッタ・切株映画

(2008年10月某日)
・公式サイト;http://www.spopro.net/tokyogorepolice/


人体破壊は娯楽である。流血シーンはエンターテイメントである。人の死はギャグである。
最初から最後まで容赦なく血と破壊にまみれた映画だ。


この映画のエンターテイメント性を特に感じさせるのが、劇中のCM映像だ。
私が印象に残ったのは
・内臓をボロボロ出しながらの腹切り場面が笑いを誘う「ストップ・ザ・HA RAKIRI」
・オシャレにリストカットする女子高生がカワイイ「リストカットカッターG」
・子供が首チョンパされた死体の首をサッカーボールがわりに使用する「警官募集」(だったとおもう)
また、長澤つぐみのワニ女や、ラスト近くの犬女(手足は日本刀)のフォルムには心動かされた。


「民営化された警察」という台詞を何度も強調することから
管理社会に対する批判が込められているのは明らかであろう。
映画の中で犯罪者には厳しく残酷な処罰が許される。
ただ、一方ラバリストやSM者が集まる見世物小屋は地下で行なわれていて
こういった倒錯的な嗜好に関してはあまり熱心に取り締まってないようにみられた。
要は「東京警察株式会社」なる存在自体が矛盾に満ちているのだ。
この矛盾が物語の核になる。

「切株」とは、映画で人体が破壊・切断される描写を指す。


腕が飛び、首がチョンパされ、胴体が真っ二つになるような表現には爽快感がある。
ゴージャスな人体破壊描写は濃密な映画的快楽をもたらす。
クエンティン・タランティーノはそれを指して「オペラ的な愉悦」と言った。


(『ショック!残酷!切株映画の世界』洋泉社,2008)

「自殺展 SUICIDE EXPOSITION 2008」by Otto Mainzheim Gallery

(2008年9月某日)
・サイト;http://www.nart.jp/jisatsuten


NART自殺展企画者が「自殺展 失敗しました」(http://washaru.blog.so-net.ne.jp/2008-09-24)
と率直に書いているのを見て思わず笑ってしまった。
やはり、展示作品の中では会田誠「自殺未遂マシーン」と作家本人によるマシーンの実演映像が印象に残る。


天井からぶらさがっている「首吊りして下さい」と言わんばかりの輪っか。
青年(作家本人)が輪を両手で掴んでから顔を輪の中に入れる。
ジャンプ。
身体の重みでロープの連結部分が外れ、青年は床に落ちる。
「また失敗か」

ここで、この装置ではどうやっても「死ねない」ことが、ビデオを観た観賞者に初めて明かされる。

自殺未遂マシーン

自殺未遂マシーン

輪のパーツがマジックテープで簡単に剥がれる仕組みになっているので
このマシーンでは死ねないのだ。

「あ、もしもし、岡田チャン(会田さんの愛妻)ですか? あ・・・どうも。・・・あのね、
実はさ、あのー、これから、自殺しようと思ってさ。
(中略)
ジャンプするもやはり虚しく床へ転がる。
「もしもし、岡田チャン?」電話は繋がったままのようだ。
「また失敗しちゃったよ。もしもし・・・何度やっても失敗するんだよね・・・」
天井から吊り下がったロープ部分が、カラカラと音を立てて揺れる。


(荒井倫太朗『自殺未遂マシーン』ABC出版,2003,p31)


この「自殺未遂」は予定調和としての自殺未遂だ。ここに欺瞞を感じる。
携帯電話による遺言を、新井倫太朗氏は「遺電」と名付けていて
なるほど、そう解釈すれば携帯電話で誰かと会話しながら自殺する行為も納得できたが
「死ぬときに誰かと話したいのだろうか」という疑念が頭をよぎる。
しかし、その踏ん切りのなさ、滑稽さ、そして欺瞞を含めて
「自殺未遂マシーン」なのだろうと、そう帰りの電車で思い直す。

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことの
むずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、
じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。
じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。
そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、
かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

ケータイで繋がったまま自殺することに最初は違和感を覚えたのだが
「じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎな」いことを
示唆するツールとしてのケータイなのかもしれない。そのように解釈した。


また、自殺展会場では、計算上日本では16分に1人が自殺しているということで
16分に一度、大きな警報音とともに赤いランプが点灯する仕掛けがあった。
計算上私が会場にいた間に2人が自殺した。




自殺するとき、私は誰かに電話するのだろうか。いったい誰に?

自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、
ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、
そして聖なる一回性であり、快楽である。


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

アロマ企画,監督:穴留玉狂『私の赤い腸(はな)』――擬似自殺

(200X年某月某日)
擬似自殺。一人の女がひたすら自傷し、自死するまでを撮った映像。50分。


・洗面所。別れた男の歯ブラシを性器に挿入する女。股から大量に出血するもそのまま挿入し続ける
・左人差し指を噛み切る。自分の首を絞める
――場面転換――
・左手に持ったリンゴを右手に持ったフォークで刺す。ナイフでリンゴの皮を剥く
・フォークで自分の身体を刺し始める。フォークで目を刺す
・ナイフでリストカット。血のついたナイフを舐める
・ナイフでお腹を刺し開く。腹の中に手を入れて内臓を取り出す。自分の内臓を食べる
・ナイフで舌を切り落とす(舌を切り落とした後、急にBGMがアッパーになる)
・ナイフを額に勢いよく突き刺す。血の海に倒れ伏す。
――場面転換――
・洗面所。血まみれで死んでいるシーン。

アロマ企画,監督:穴留玉狂『猟奇エロチカ 肉だるま』――擬似スナッフ(擬似殺人)

(200X年某月某日)
擬似スナッフ。娯楽のために人を殺して映像にする様子。75分。


・<手持ちカメラ>車中。AV撮影現場へ向かう
・1日目。AV撮影の様子。つつがなく終了
・2日目。縛り。お尻→NGで撮影ストップ
ローソク→「熱い」「もうちょいいこう」「熱い」→本気で嫌がる→撮影ストップ
・ムチ→「痛い」→本気で嫌がる→「画になんない」
・スカトロは「痛くも熱くもないから大丈夫。これだけがんばろ。な」
・浣腸→「ストップ」「できない」「これダメだったら仕事になんない」


「できませんじゃねぇ、やるんだよ!」


――撮影中断――


「もういい。帰れ」


・玄関。帰るため靴を履こうとしている女優。背後から男がバットで頭を殴る
・急いで止血。ベッドに縛り付ける。男優にこの状態でSEXするように指示。
・「生きてるねぇ、まだ死んでないねぇ」
・監督が女優の左足首を切断。男優がビックリして後ろを振り返る。
・監督「(SEXを)続けて、気にしなくていいから」
・女優の意識が戻る。痛みで叫ぶ。男優と監督が交代。
・「ペンチとってきて」→舌を切ろうとする「切れねぇな」「噛み切っちゃおう」
・「そろそろモルヒネ切れてくんじゃない」「止血しよう。止血」
・「モルヒネ追加しないとショック死しますよ」
・右手切断。「骨にぶつかっちゃったよ」→細い骨や筋繊維を枝切りバサミのようなもので切る


「どうしたのぉ〜」「イタイのぉ〜」「まだ助かりたいかぁ〜」・・・「次行こうか」


・ショックのため別の部屋で寝ている男優を起こす
・監督「残ってる足をやってくれ」→男優、震えながら女優の右足をナイフで刺す


「中途半端だから切り落として」


・ナイフで女優の腹を裂く。男優が女優の腹の裂け目に男性器を挿入「気持ちいい」
・男優が射精した直後、監督が後ろからバットで男優の頭を殴る
・監督が男優の男性器を切り取る
・「おつかれさまでしたー」

平加門
「ギニーピッグにしても、当時本物だって騒がれたぐらいですからね。
で、ちゃんと見ればスタッフが心を込めて作ったものだって分かるのに、
それでも『本物の殺人フィルム』という幻想にみんなしがみついている。
なぜかというと、出来のいいフィクションよりも曖昧な噂の方が遥かに魅力的だからなんですね。
「本物であってほしい」という願望が
目の前のフィクションを無理やりノンフィクションとして認識してしまうという


(穴留玉狂(あなる たまきち)インタビュー [脳内射精 in大阪])
http://www.asiandrug.jp/event/nonaishasei2006/more/interview_anal.htm

「性-暴力」から「性/暴力」へ。「本物っぽいやらせ」から「不真面目なドキュメンタリー」へ

セックス・ショックメンタリーが登場したのは、
ポルノが合法化される以前のことであり、ドキュメンタリーという名目なくしては、
ヌードを映画化できない時期だったからだ。
セックス・ショックメンタリーは、ヌードシーンを見せるための口実だったのである。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p106)

モンド・フィルムにおける最大の変化は、七〇年代後半にやってきた。
セックスと暴力が次第に別個に描かれるようになったのだ。
ハードコア・ポルノの出現により、セックス・ショックメンタリーは衰退し始めていたからだ。
(中略)
八〇年代に入って、ヴィデオ技術の発達により、
現実に起こった災害や事故現場の映像の占める割合が多くなっていく。
ネタを探して駈けずり回るテレビの取材記者などが写した、本物の映像が使われるようになったのである。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p106)

変化したのは、死を扱った映像の量だけではない。その内容も大きく変化したのだった。
これまでに多用されていた動物の殺戮シーンが、人間の虐殺シーンに代わるのである。
(中略)
これ以前のモンド・フィルム対しては、やらせシーンを本物のように扱っている、
という批判が多かったが、こうした批判は、ニュース・クリップという本物の現場を写した映像を多用した
八〇年代のモンド・フィルムには当てはまらなくなってきた。
ただし、批判がなくなった訳ではない。今度は、別の形で批判されるようになったのである。
それは、モンド・フィルムは、本物の映像を扱うドキュメンタリーとしては、
あまりにも安直で、面白半分に異常性や話題性ばかりを強調しすぎているというものだった。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p107)

殺人は普遍的な価値の欠乏の表明である

殺人者に欠けているのは、まさにこの生命の価値の認識である。
しかし、われわれすべてが、ある程度それを欠いている。
(中略)
殺人は普遍的な価値の欠乏の表明である。
(中略)
殺人者の異常さという考えは、社会の根底となっている正常さという幻想の一部である。
殺人者と他の人間との違いは程度の差であって、種類が異なるのではない。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p21)

殺人者の大部分は退屈な人間であり、ほとんどすべてが愚者であると私は感じる。
子供のころ、殺人がはげしく私をとらえた。
死体が埋められた所に妖気が立ちこめているように思ったものである。
のちに私は殺人者を不愉快な落伍者、
神へ向かって進むはずの人間の精神の退行であると考えるようになった。


(中略)


ドストエフスキーは、大部分の人は哲学を語る傾向を欠いているが、
ほとんどすべての人は話が暴力のことになれば、立ちどまって耳を傾けるということを理解していた。
そしてドストエフスキー自身の生活――ゴッホニジンスキーのそれと同じように――が
多くの暴力をふくみ、その問題を「劇化」するにことかかなかった。
殺人の問題が、ふたたび私をとらえたのは、この点においてであった。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p37-38)

殺人には三つのタイプがあるように私には思われる。
第一は、ごくまれである――挫折した生命力から生ずるもので、
(中略)
つぎに、まったくの残虐性、苦しみに対する無感覚から起こる殺人がある。
(中略)
殺人者の最大の部類に属する人びとは、彼らの生活のせまさ、あるいは想像力の不足から殺す。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p38-39)

JACK IN THE BOX 2008

とき:2008-12-27
ばしょ:日本武道館
サイト:http://www.jack-itb.com/


コーフンして帰宅後も落ち着かず。


●●●Session-A●●● 1.Theves 2.Burning Inside 3.The Missing 4.Stigmata
Vocal. Anis(MONORAL)
Guitar. ants(acid android)
Guitar. Kishi(acid android)
Guitar. tomo(acid android)
Bass. 愁(ギルガメッシュ
Drums. yukihiro(acid android)
Drums. YASUO(acid android)


これは全部Ministryの曲でしょうか?あまり詳しくないので間違ってるかも。
しかしacid android全員出てるしインダストリアル系の楽曲だから
Ministryカバーはありえると思った次第であります。


●●●girugamesh(ギルガメッシュ)●●● 1.Break Down 2.smash!! 3.evolution

MUSIC

MUSIC

girugameshはライブだとCDで聴くより音がゴリゴリでかっこいい。
3曲目evolutionのイントロが流れた時点でニッコリ。


ギルガメッシュ「Break Down」http://jp.youtube.com/watch?v=RoeYh4MwtCk


●●●Session-B●●● 1.rose 2.GLAMOROUS SKY
Vocal. 左迅(ギルガメッシュ
Guitar. ミヤ(ムック)
Guitar. タイゾ(ゾロ)
Bass. たつひ(ゾロ)
Drums. Яyo(ギルガメッシュ


「ミヤー、ミヤー、ミヤー」「NANAかよーww」


1曲目:土屋アンナが歌ったアニメ「NANA」のopening楽曲
2曲目:中島美嘉が歌った映画「NANA」の主題歌でもちろんhyde様作曲。


●●●ZORO(ゾロ)●●● 1.COSMO「S」フューチャー 2.ライオンベイビイ 3.KITSUNE
ゾロボーカルMC「お命頂戴します」

初見。やたらと動き回りぴょんぴょん跳ねてる女形麺のベースと対照的に
ほとんど動かずきっちりと弾くギターといった印象。
ボーカルのMCが素っ頓狂で笑った。あそこまでキャラ作らなくても。しかし若いから問題ないw


ゾロ「KITSUNE」http://jp.youtube.com/watch?v=nOIj3jZW7wA


●●●Session-C●●● 1.丸の内サディスティック
Vocal. マオ(シド)
Guitar. ゆうや(シド)
Bass. YUKKE(ムック)
Drums. 裕哉(ゾロ)
Key. 小池敦(シドサポートキーボード)


椎名林檎の「丸の内サディスティック」をシドのマオが熱唱。
マオが歌うと歌謡曲みたいになる。


「間奏のユッケのベースきたこれ!!!!!!!!!」


●●●Session-D●●● 1.Link(L’Arc〜en〜Ciel楽曲)  2.妄想アメリ(jealkb楽曲)
Vocal. 逹瑯(ムック)
Vocal. haderu(jealkb)
Violin. hideki(jealkb)
G1. ediee(jealkb)
G2. mofto(jealkb)
Bass. dunch(jealkb)
Key. chaos(jealkb)
MC. sakura(jealkb)

metronome

metronome

まさかjealkbを1年で2度見ることになるとは思わなかったw
しかも逹瑯とセットでw


「ボクたち日本一腰の低いヴィジュアル系バンドです」
「逹瑯先輩には色々お世話になって・・・」
「jealkb知ってる人 → 大勢が挙手(皆知ってる)→ なんでライブのチケット売れないんだろ」


●●●SID(シド)●●● 1.私は雨 2.モノクロのキス 3.夏恋 4.エール

モノクロのキス

モノクロのキス

「マオのクロブチ眼鏡カワユス」
自分の席近くにいた大量のロリィタ様たちが咲きまくって少々居たたまれなかった・・・が
マオの歌声は何か魅せるものがあると感じた。
アニメ「黒執事」を見ていると必ずCMで「モノクロのキス」の宣伝が流れるが
このPVのシドがあまりかっこよくないと思ってしまう。気のせいなのでしょうか。


ライブ終了後、新曲「2℃目の彼女」のプロモーションビデオが流れる。こっちの方が良い。

2℃目の彼女(初回生産限定盤B)(DVD付)

2℃目の彼女(初回生産限定盤B)(DVD付)

・シド「夏恋」http://jp.youtube.com/watch?v=megi-V_Rvtc


●●●Ken●●● 1.Rock And Roll 2.Speed 3.Deeper 4.白い花
全く問題ないですが、Kenちゃんギター弾いてくれたらもっと嬉しいかも


●●●Session-E●●● 1.Sweetness(Jimmy Eat World) 2.All Dead(L’Arc〜en〜Ciel楽曲)
Vocal. hydeL’Arc〜en〜Ciel
Guitar. ミヤ(ムック)
Bass. 明希(シド)
Drums. ピエール中野凛として時雨
Key. 秦野猛行(ラルクサポート)


まさか出ると思わなかった、凛として時雨の名前が出て急いで立ち上がる。
そしてやっとハイド様登場で会場が大興奮。


1曲目:Jimmy Eat World「Sweetness」いやいや、まさかhyde様がJimmy Eat Worldを歌うとは・・・


メンバーはシドの明希の好きなようにやっていいということで集められた、とhyde様。
次はそんな明希が3年前からやりたいと言い続けたらしい楽曲。
しょうがない、今回だけだぞとhyde様。
その曲は・・・・・・


「All Dead」キタ━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ ! ! !


初期ラルクネ申!!!!!!!!!!!!!!!!!
明希ナイス選曲。素晴らしい。最高すぎる。ヤパイヤパイ。。。。。。。。。。


●●●BUG●●●1.美獣-Beautyful Beast- 2.Parade with the Midnightsun 3.NEW WORLD 4.Flower of Romance
BUGは圧倒的にギターの音がかっこいい。今まで見たBUGの中で今回が一番好きな楽曲だったかも。


●●●ムック●●● 1.ファズ 2.アゲハ with ken(L'Arc〜en〜Ciel) 3.蘭鋳 4.リブラ

アゲハ

アゲハ

今回はミヤのギターが調子いい。よかったぁぁ。ムックで暴れて力使い果たした。


・ファズ:ライブ映えするよな本当に。
・アゲハ:ギターが一人増えてると思ったら
Kenちゃんがギター持ってキタ━(゚∀゚)━!


Kenちゃんギター弾いてくれぇ」と祈り続けてた甲斐があった
・蘭鋳:アタマ振りまくった。
・リブラ:身体揺れまくった。


●●●Shinji(シド)●●● 1.まだ友達がいた頃
今年は杉本善徳が出ないので、シドのしんぢが笑い担当のようだ。
ギター漫談を模した形式でガングロ時代の話から最後のオチまで
誰かが台本書いたのかと思わせるくらいによく出来ていた。


「ありがとう、いい薬です」太田胃散


●●●tetsu●●● 1.Fresh(仮) 2.REVERSE 3.Can't stop believing 4.Lonely Girl
ピンクのサイリウムが・・・・・・どこぞのアイドルみたい。確かに曲は可愛くてキャッチーだけれどね。


●●●Session-F●●● 1.WHITE BREATHT.M.Revolution楽曲) 2.READY STEADY GOL’Arc〜en〜Ciel楽曲)
Vocal. tetsu
Vocal. T.M.Revolution 西川貴教
Guitar. INORAN(LUNA SEA)
Guitar. 雅-miyavi-
Bass. SHUSE(ex.L'acryma Christi)
Drums. 白鳥雪之丞氣志團
Key&Mani. 中尾昌文


イノラン(LUNA SEA)の名前が出た瞬間に前に乗り出して落ちそうになる。
遂にイノランがデンジャーに来てくれた。真矢はすでにサポートで来てるけど。
というか、すごい豪華だな、このメンバー。
雅-miyavi-はこれでSUGIZOだけではなくINORANとも一緒にプレーしたことになるのか。


WHITE BREATH後、MC中tetsuと西川貴教が仲良しトーク
次の曲は誕生日パーティのカラオケで一緒に歌った曲だという。
READY STEADY GO」かぁ。


ってうわわ、、、イノラン様がラルク曲でギター弾いてるぅうううう
ヤバイヤバイスゴスギル。イノラン様イケメンすぎる!!!!!!!!!!!!!
「イノラーン」と叫ぶ。


●●●44MAGNUM●●● 1.I'M ON FIRE 2.IT'S TOO BAD 3.YOUR HEART 4.NO STANDING STILL
44MAGNUMを生で見られるとは。ジャパメタのお手本みたいなイメージ。
ベースはデンジャー社長。


●●●Session-G●●● 1.MAVERICK DC SUPER MEDLEY 2008
Vocal. PAUL(44MAGNUM
Vocal. kyo(BUG)
Vocal. hyde(L'Arc〜en〜Ciel)
Vocal. 逹瑯(ムック)
Vocal. マオ(シド)
Guitar. ミヤ(ムック)
Bass. 明希(シド)
Drums. SATOち(ムック)


逹瑯(ムック)「なんかこれすごくない


先輩の曲を後輩が歌うメドレー。これは感涙もの。


44MAGNUM:Vocal. kyo(DIE IN CRIES→BUG)
DIE IN CRIES「NOCTURNE」:Vocal. hydeL’Arc〜en〜Ciel)
L’Arc〜en〜Ciel浸食 〜lose control〜」:Vocal. 達瑯(ムック)
・ムック「流星」:Vocal. マオ(シド)
・シド「モノクロのキス」:Vocal. PAUL(44MAGNUM)


曲中、スクリーンに各々当時のライヴ映像が流れる。
DIE IN CRIESの映像中に若いころのyukihiroが映ると会場に悲鳴が。


ラルク浸食の達瑯が似合ってて最高だった。
その後、ムック流星のイントロが流れた時点で笑顔が止まらず、
「この流れだとマオが流星歌うのか」と思っていたら、やはりそうだった。
最後のシド「モノクロのキス」。あれ、シドより下がいないじゃんと思ったら
44MAGNUMのPAULさんがシド歌ってる。ものすごく似合ってないw


●●●MAVERICK DC SUPER ALL STARS●●● 1.SATISFACTION (song by 44MAGNUM
最後は例年通り、出演者がゾロゾロでてきて終わる。


本当最高の日でした。

新谷良子 LIVE 2008 Early X'mas Time in chu→lip☆kingdom


とき:2008-11-30
ばしょ:CLUB CITTA'
ブログ:http://ameblo.jp/pinkbambi-ryoko/entry-10171942869.html

月とオルゴール

月とオルゴール

――setlistらしきもの――
ハートブレイカ
Trip into Tiny Peace!
LUCKY GIRL(Self Covered)
恋の構造
――――――――――――
アイロニカルスター
ハリケーンミキサー
ヒットパレード194
――――――――――――
君のもとへ
手のひらの太陽
――――後半――――――
ロストシンフォニー
Wonderful World
月とオルゴール
――――――――――――
crossing days
CANDY☆POP☆SWEET☆HEART
――――アンコール―――
迷い姫ぱにっく
ray of sunshine
――――アンコール2――
Thank You for my Dear


今年よく聞いたアルバムは平野綾『RIOT GIRL』と中川翔子Big☆Bang!!!』の2つだった。

RIOT GIRL

RIOT GIRL

Big☆Bang!!!(DVD付)

Big☆Bang!!!(DVD付)

両者とも楽曲製作にmeg rocknishi-ken黒須克彦齋藤真也
といった名前が関わっているためか
アルバムの雰囲気も似ていると思わせるところがある。

逆に私は新谷良子さんのアルバムをそれほど聞き込んでいるわけではない。
新谷良子さんの楽曲は圧倒的にライブ向きな気がしている。
CDを聞くとバックバンドの「Pink Bambi BAND」が
とても楽しんで演奏している様子が浮かんでくるのだ。


案の定ライブは演奏陣(特にベース)が印象に残った。
それほど興味のない楽曲でもベースラインを耳で追っているだけで楽しかった。
ライブでBL疑惑が出てしまったベースの方のブログ(http://blog.livedoor.jp/hiromitsumiro/


そしてこれだけバックバンドが好き勝手やっているのに
ボーカルの新谷良子さんは
アイドル声優としてある意味真っ当なキュートさで歌い上げている。
ボーカルの歌い方とバックに温度差があって
それが良い方向に化学反応を起こしていると感じた。

後半戦開始とともに演奏した
「ロストシンフォニー」→「Wonderful World」→「月とオルゴール」
この3曲の流れが本当に良かった。
新谷良子さん自身もこの3曲でワンセットだという趣旨をMCで話されていたが
新しいアルバムが発表されたら、もうこの流れで演奏されることもないかもしれないので
まさに今が旬の構成だったのではなかろうか。

やはりベースがいい。それにつきる。
アンコール前のラスト「CANDY☆POP☆SWEET☆HEART」は
新谷さんの声に合っている可愛らしい楽曲だと思った。

新谷さんのお洋服は遠目で確認した限り
赤いワンピに黒のジャケット、白いシルクハット、黒い靴下(違うかも)。
ピンクのサイリウムがキレイなライブでございました。




――――――――――本日のBGM――――――――――――――
Natalie Imbruglia(ナタリー・インブルーリア)『White Lilies Island』

ホワイト・リリーズ・アイランド

ホワイト・リリーズ・アイランド

ギターの音と声が両方とも爽やかな風のようで心地良い。ナタリー・インブルーリアの2nd。
●クイーン・アドリーナ『Queen Adreena Live』
Queen Adreena Live [DVD] [Import]

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ケイティ嬢の妖艶かつ激烈なライブパフォーマンスは映像で見る価値がある。