ニセモノの自殺映像、ホンモノの死体映像、擬似スナッフ・フィルム(殺人映像)

Imamu2009-01-18

もう中学生「君をむごったらしく殺すところをビデオに収めるんだからさ〜…!」
狩野「ス、スナッフゥ〜! スナッフゥ〜!!」


(狩野英孝「レッドカーペットのレッドは血の色ってことか…!」:VIPPERな俺)
http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-1566.html

スナッフとは、形の変わりやすい恐怖の想像物だ。
(『キリング・フォー・カルチャ』p319)

スナッフには人の心を暗くする力がある。
(『キリング・フォー・カルチャ』p320)

スナッフとは、究極が退廃、存在しないことを証明できないがために存在しなくてはならないバケモノである。
(中略)
スナッフとは、メディアが大衆のモラルをくすぐるための手段である。
そのようなフィルムなどかつてどのような場所であれ、どこからも見つかったことがないのに、
メディアはこの作り話を事実として見境もなく育て上げ、助長し続けている。
おそらく、そうすることで――繰り返し潜在的な貨幣価値を語り、市場の可能性を予測することで――
いつの日かスナッフを紛れもない商品に変えてしまうだろう。


(David Kerekes, David Slater『キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像』フィルムアート社,1998,p322)

キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像

キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像

  • 作者: デヴィッドケレケス,デヴィッドスレイター,David Kerekes,David Slater,菊池淳子,とちぎあきら
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
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<スナッフ・フィルム>なる名称が一般に知られるようになったのはいつごろからだろう?
おそらく日本では、『スナッフ』なる映画が公開されて、
かなりの話題を博したのがきっかけだったのではないかと思う。
ぴあから出ている『シネマクラブ』によれば、
七六年に政策されたこのアルゼンチン映画はほぼこんな内容だ。
SM映画の撮影現場。監督がセックスを強要する。
女が拒否すると、男は怒り、女を電動ノコギリで刻みはじめる・・・・・・


(中略)


言うまでもなく<スナッフ・フィルム>とは、
実際の殺人そのものを撮影した究極の色物、ゲテモノ映画である。
この場合、殺人は、殺人現場に遭遇した人物のカメラで偶然に写し取られるのではなく
(これだとドキュメンタリーになる)、
映画に撮影することを目的として意図的になされなければならない。
なにしろ内容が内容なので、一般の市場に出回ることはもちろんなく、
当然、その実在は確認されていない。
にもかかわらずそれにまつわる噂だけは絶えない、というわけで<スナッフ・フィルム>は、
「消えたヒッチハイカー」や「電子レンジで加熱された赤ん坊」同様、
いわば都市伝説的な存在だと見なされている。


(Yaron Svoray,Thomas Hughes,浜野アキオ(訳)『スナッフ・フィルム追跡』扶桑社,2000,p401-402)

スナッフ・フィルム追跡 (扶桑社ノンフィクション)

スナッフ・フィルム追跡 (扶桑社ノンフィクション)

  • 作者: ヤーロンスヴォレイ,トマスヒューズ,Yaron Svoray,Thomas Hughes,浜野アキオ
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2000/06
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「せんずった時に切断痕をヌップヌップしゃぶりながらイチャイチャしてぇ〜」


(星島被告の書いていた同人誌やmixiが続々発掘される! | うらたん)
http://uratan.jp/hotnews/2009/01/7625/

検察官「その女性をどうしようと思ったのですか?」
星島被告「自分の部屋に連れてきて、性的快楽を与え続け、
自分の思うようにしようとしました。自分ならできると思いました」
検察官「(東城さんを)何にしようと思ったのですか?」
星島被告「『性奴隷』です」
検察官「『性奴隷』とは何ですか」
星島被告「私とのセックスに依存し、私を必要に思うような女性です」
検察官「そのためには何をするつもりでしたか」
星島被告「セックスをして調教しようとしました」
検察官「どうやってセックスしようと思ったのですか」
星島被告「女性を自分の部屋に連れて行き、長い時間かけて調教しようとしました」


(【神隠し殺人初公判(11)】「警察に訴えられないようセックスで調教しようとした」
身勝手な論理を展開(14:00〜14:15) (2/4ページ) - MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090113/trl0901131601019-n2.htm

彼らに「何故、人殺しをしたか」ときけば彼らはただ「殺したかったから殺した」とか
或は「ただふらふらと殺したくなったからやっつけたんだ」と答えるのである。
即ち「殺人の為の殺人」を行う手合で、まことに物騒千万な人達であり、
犠牲者こそいいめいわくと云いたいようなものだ。
怨みの為に殺される人、金をもっていて殺される人などは、
仮令(たとえ)自分達に責任はないにしろ
一応犠牲者の方にも殺される理由があるのだが、
殺人狂の被害者に至っては、まったく出たとこ勝負、
偶然中の偶然、殺人狂に出会したのが一生の不運というより外云いようがない。


青空文庫浜尾四郎「殺人狂の話――欧米犯罪実話」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000289/card47762.html

『RARE -レア- 人間であったはずの肉塊』――死体映像集

(200X年某月某日)
タイ・バンコクで撮影した死体映像集。90分。


・交通事故の死体は肉体がグチャグチャになっているものが多い
・交通事故にくらべると意外と殺人による死体は肉体の損傷が少なく見た目の悲惨さはない
・レイプ殺人の死体に戦慄した。肉体的には綺麗なのが余計に気持ち悪さを誘う。吐きそうになる
・初めて見るのに、見たことがある感覚。撮影者「釣崎清隆」のクレジットを見て納得する。
・事前に釣崎清隆の著書を読んでいたから、この映像に既視感をおぼえたのかもしれない。


警察が淡々と作業する様子は映像としての快楽が全く発生しない。
ホンモノの死体がそれだけで面白いとは限らない。

死体に目が眩んで―世界残酷紀行

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●関連する日記
『死化粧師オロスコ』上映イベント and 釣崎清隆 x 松嶋初音トークショー - 死に忘れましたわ
死体の丁寧な処理シーンをみたい場合は『死化粧師オロスコ』がお薦めである。

死化粧師オロスコ [DVD]

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映画『東京残酷警察』――スプラッタ・切株映画

(2008年10月某日)
・公式サイト;http://www.spopro.net/tokyogorepolice/


人体破壊は娯楽である。流血シーンはエンターテイメントである。人の死はギャグである。
最初から最後まで容赦なく血と破壊にまみれた映画だ。


この映画のエンターテイメント性を特に感じさせるのが、劇中のCM映像だ。
私が印象に残ったのは
・内臓をボロボロ出しながらの腹切り場面が笑いを誘う「ストップ・ザ・HA RAKIRI」
・オシャレにリストカットする女子高生がカワイイ「リストカットカッターG」
・子供が首チョンパされた死体の首をサッカーボールがわりに使用する「警官募集」(だったとおもう)
また、長澤つぐみのワニ女や、ラスト近くの犬女(手足は日本刀)のフォルムには心動かされた。


「民営化された警察」という台詞を何度も強調することから
管理社会に対する批判が込められているのは明らかであろう。
映画の中で犯罪者には厳しく残酷な処罰が許される。
ただ、一方ラバリストやSM者が集まる見世物小屋は地下で行なわれていて
こういった倒錯的な嗜好に関してはあまり熱心に取り締まってないようにみられた。
要は「東京警察株式会社」なる存在自体が矛盾に満ちているのだ。
この矛盾が物語の核になる。

「切株」とは、映画で人体が破壊・切断される描写を指す。


腕が飛び、首がチョンパされ、胴体が真っ二つになるような表現には爽快感がある。
ゴージャスな人体破壊描写は濃密な映画的快楽をもたらす。
クエンティン・タランティーノはそれを指して「オペラ的な愉悦」と言った。


(『ショック!残酷!切株映画の世界』洋泉社,2008)

「自殺展 SUICIDE EXPOSITION 2008」by Otto Mainzheim Gallery

(2008年9月某日)
・サイト;http://www.nart.jp/jisatsuten


NART自殺展企画者が「自殺展 失敗しました」(http://washaru.blog.so-net.ne.jp/2008-09-24)
と率直に書いているのを見て思わず笑ってしまった。
やはり、展示作品の中では会田誠「自殺未遂マシーン」と作家本人によるマシーンの実演映像が印象に残る。


天井からぶらさがっている「首吊りして下さい」と言わんばかりの輪っか。
青年(作家本人)が輪を両手で掴んでから顔を輪の中に入れる。
ジャンプ。
身体の重みでロープの連結部分が外れ、青年は床に落ちる。
「また失敗か」

ここで、この装置ではどうやっても「死ねない」ことが、ビデオを観た観賞者に初めて明かされる。

自殺未遂マシーン

自殺未遂マシーン

輪のパーツがマジックテープで簡単に剥がれる仕組みになっているので
このマシーンでは死ねないのだ。

「あ、もしもし、岡田チャン(会田さんの愛妻)ですか? あ・・・どうも。・・・あのね、
実はさ、あのー、これから、自殺しようと思ってさ。
(中略)
ジャンプするもやはり虚しく床へ転がる。
「もしもし、岡田チャン?」電話は繋がったままのようだ。
「また失敗しちゃったよ。もしもし・・・何度やっても失敗するんだよね・・・」
天井から吊り下がったロープ部分が、カラカラと音を立てて揺れる。


(荒井倫太朗『自殺未遂マシーン』ABC出版,2003,p31)


この「自殺未遂」は予定調和としての自殺未遂だ。ここに欺瞞を感じる。
携帯電話による遺言を、新井倫太朗氏は「遺電」と名付けていて
なるほど、そう解釈すれば携帯電話で誰かと会話しながら自殺する行為も納得できたが
「死ぬときに誰かと話したいのだろうか」という疑念が頭をよぎる。
しかし、その踏ん切りのなさ、滑稽さ、そして欺瞞を含めて
「自殺未遂マシーン」なのだろうと、そう帰りの電車で思い直す。

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことの
むずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、
じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。
じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。
そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、
かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

ケータイで繋がったまま自殺することに最初は違和感を覚えたのだが
「じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎな」いことを
示唆するツールとしてのケータイなのかもしれない。そのように解釈した。


また、自殺展会場では、計算上日本では16分に1人が自殺しているということで
16分に一度、大きな警報音とともに赤いランプが点灯する仕掛けがあった。
計算上私が会場にいた間に2人が自殺した。




自殺するとき、私は誰かに電話するのだろうか。いったい誰に?

自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、
ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、
そして聖なる一回性であり、快楽である。


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

アロマ企画,監督:穴留玉狂『私の赤い腸(はな)』――擬似自殺

(200X年某月某日)
擬似自殺。一人の女がひたすら自傷し、自死するまでを撮った映像。50分。


・洗面所。別れた男の歯ブラシを性器に挿入する女。股から大量に出血するもそのまま挿入し続ける
・左人差し指を噛み切る。自分の首を絞める
――場面転換――
・左手に持ったリンゴを右手に持ったフォークで刺す。ナイフでリンゴの皮を剥く
・フォークで自分の身体を刺し始める。フォークで目を刺す
・ナイフでリストカット。血のついたナイフを舐める
・ナイフでお腹を刺し開く。腹の中に手を入れて内臓を取り出す。自分の内臓を食べる
・ナイフで舌を切り落とす(舌を切り落とした後、急にBGMがアッパーになる)
・ナイフを額に勢いよく突き刺す。血の海に倒れ伏す。
――場面転換――
・洗面所。血まみれで死んでいるシーン。

アロマ企画,監督:穴留玉狂『猟奇エロチカ 肉だるま』――擬似スナッフ(擬似殺人)

(200X年某月某日)
擬似スナッフ。娯楽のために人を殺して映像にする様子。75分。


・<手持ちカメラ>車中。AV撮影現場へ向かう
・1日目。AV撮影の様子。つつがなく終了
・2日目。縛り。お尻→NGで撮影ストップ
ローソク→「熱い」「もうちょいいこう」「熱い」→本気で嫌がる→撮影ストップ
・ムチ→「痛い」→本気で嫌がる→「画になんない」
・スカトロは「痛くも熱くもないから大丈夫。これだけがんばろ。な」
・浣腸→「ストップ」「できない」「これダメだったら仕事になんない」


「できませんじゃねぇ、やるんだよ!」


――撮影中断――


「もういい。帰れ」


・玄関。帰るため靴を履こうとしている女優。背後から男がバットで頭を殴る
・急いで止血。ベッドに縛り付ける。男優にこの状態でSEXするように指示。
・「生きてるねぇ、まだ死んでないねぇ」
・監督が女優の左足首を切断。男優がビックリして後ろを振り返る。
・監督「(SEXを)続けて、気にしなくていいから」
・女優の意識が戻る。痛みで叫ぶ。男優と監督が交代。
・「ペンチとってきて」→舌を切ろうとする「切れねぇな」「噛み切っちゃおう」
・「そろそろモルヒネ切れてくんじゃない」「止血しよう。止血」
・「モルヒネ追加しないとショック死しますよ」
・右手切断。「骨にぶつかっちゃったよ」→細い骨や筋繊維を枝切りバサミのようなもので切る


「どうしたのぉ〜」「イタイのぉ〜」「まだ助かりたいかぁ〜」・・・「次行こうか」


・ショックのため別の部屋で寝ている男優を起こす
・監督「残ってる足をやってくれ」→男優、震えながら女優の右足をナイフで刺す


「中途半端だから切り落として」


・ナイフで女優の腹を裂く。男優が女優の腹の裂け目に男性器を挿入「気持ちいい」
・男優が射精した直後、監督が後ろからバットで男優の頭を殴る
・監督が男優の男性器を切り取る
・「おつかれさまでしたー」

平加門
「ギニーピッグにしても、当時本物だって騒がれたぐらいですからね。
で、ちゃんと見ればスタッフが心を込めて作ったものだって分かるのに、
それでも『本物の殺人フィルム』という幻想にみんなしがみついている。
なぜかというと、出来のいいフィクションよりも曖昧な噂の方が遥かに魅力的だからなんですね。
「本物であってほしい」という願望が
目の前のフィクションを無理やりノンフィクションとして認識してしまうという


(穴留玉狂(あなる たまきち)インタビュー [脳内射精 in大阪])
http://www.asiandrug.jp/event/nonaishasei2006/more/interview_anal.htm

「性-暴力」から「性/暴力」へ。「本物っぽいやらせ」から「不真面目なドキュメンタリー」へ

セックス・ショックメンタリーが登場したのは、
ポルノが合法化される以前のことであり、ドキュメンタリーという名目なくしては、
ヌードを映画化できない時期だったからだ。
セックス・ショックメンタリーは、ヌードシーンを見せるための口実だったのである。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p106)

モンド・フィルムにおける最大の変化は、七〇年代後半にやってきた。
セックスと暴力が次第に別個に描かれるようになったのだ。
ハードコア・ポルノの出現により、セックス・ショックメンタリーは衰退し始めていたからだ。
(中略)
八〇年代に入って、ヴィデオ技術の発達により、
現実に起こった災害や事故現場の映像の占める割合が多くなっていく。
ネタを探して駈けずり回るテレビの取材記者などが写した、本物の映像が使われるようになったのである。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p106)

変化したのは、死を扱った映像の量だけではない。その内容も大きく変化したのだった。
これまでに多用されていた動物の殺戮シーンが、人間の虐殺シーンに代わるのである。
(中略)
これ以前のモンド・フィルム対しては、やらせシーンを本物のように扱っている、
という批判が多かったが、こうした批判は、ニュース・クリップという本物の現場を写した映像を多用した
八〇年代のモンド・フィルムには当てはまらなくなってきた。
ただし、批判がなくなった訳ではない。今度は、別の形で批判されるようになったのである。
それは、モンド・フィルムは、本物の映像を扱うドキュメンタリーとしては、
あまりにも安直で、面白半分に異常性や話題性ばかりを強調しすぎているというものだった。


(『キリング・フォー・カルチャー――殺しの映像』p107)

殺人は普遍的な価値の欠乏の表明である

殺人者に欠けているのは、まさにこの生命の価値の認識である。
しかし、われわれすべてが、ある程度それを欠いている。
(中略)
殺人は普遍的な価値の欠乏の表明である。
(中略)
殺人者の異常さという考えは、社会の根底となっている正常さという幻想の一部である。
殺人者と他の人間との違いは程度の差であって、種類が異なるのではない。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p21)

殺人者の大部分は退屈な人間であり、ほとんどすべてが愚者であると私は感じる。
子供のころ、殺人がはげしく私をとらえた。
死体が埋められた所に妖気が立ちこめているように思ったものである。
のちに私は殺人者を不愉快な落伍者、
神へ向かって進むはずの人間の精神の退行であると考えるようになった。


(中略)


ドストエフスキーは、大部分の人は哲学を語る傾向を欠いているが、
ほとんどすべての人は話が暴力のことになれば、立ちどまって耳を傾けるということを理解していた。
そしてドストエフスキー自身の生活――ゴッホニジンスキーのそれと同じように――が
多くの暴力をふくみ、その問題を「劇化」するにことかかなかった。
殺人の問題が、ふたたび私をとらえたのは、この点においてであった。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p37-38)

殺人には三つのタイプがあるように私には思われる。
第一は、ごくまれである――挫折した生命力から生ずるもので、
(中略)
つぎに、まったくの残虐性、苦しみに対する無感覚から起こる殺人がある。
(中略)
殺人者の最大の部類に属する人びとは、彼らの生活のせまさ、あるいは想像力の不足から殺す。


コリン・ウィルソン,大庭忠男訳『殺人百科 (新装版)』彌生書房,1993,p38-39)