忘却から生ずる無垢と軽さ――金田朋子様ブログ開設によせた腐臭漂う短文

Imamu2008-11-08



●「金田朋子抗鬱剤である」
何度この命題を口にしたことであろうか。
そして何度ミニミニミクロ電子幼稚園園歌を口ずさんだであろうか。
なぜ何度もミニミニミクロ電子幼稚園が終わってしまうのか。


●「ヘリウムガスを吸っても、あまり声が変わりません(苦笑)」
その声とその発言の珍妙さから放たれる金朋地獄なる異空間は
まさに蟻地獄のごとく周囲の者を奈落の底へ突き落とす。
金田朋子に近付くため大量のヘリウムガスを購入し常に吸引し続けよう夢想したこともあった。
しかし、それは叶わぬ夢であった。
金田朋子の声に殺されたい。『BLACK LAGOON』グレーテル役で快楽殺人者を演じた金田朋子に殺されたい。

私は自分が戦死したり殺されたりしてゐる状態を空想することに喜びを持つた。
三島由紀夫仮面の告白』)


●「記憶をすぐになくしてしまう」
金田朋子は世界の悪意にどう対処しているのか。
それが気になって仕方がなかった。
金朋先生はある日のトークショーで「すぐに忘れる」「良いことしか覚えていない」と語った。


記憶の喪失を「白紙」と言い換えるだけで、それは無垢へと飛翔する。
かの有名な「金田朋子語録」を紐解いてみると
単純な言い間違いや初歩的な勘違いが多いことに気付くだろう。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51219194.html
(私のお気に入りは「ちんちん代謝」「ガチャピンってあれだよね?黄色の方だよね?」だ。)
もはや何かの概念を正確に覚える気など始めから持っていないようである。
これからも金朋先生は松来未祐の名前を言い間違えるのであろう。
そう。認識力は「汚れ」なのだ。


金田朋子の「軽さ」
私は金田朋子の魅力を「軽さ」と表現したい。
もちろん148cm、38kg(公式プロフィール*1)という
金朋先生のミニミニミクロなサイズによる軽さの話ではなく
過去の記憶と断絶されることによって生まれる「軽さ」のことである。
(しかし、このミニミニミクロな金朋先生が可愛いのはまぎれもない事実だ)


歴史を引きずる行為は「重さ」を感じさせる。それは伝統などと呼ばれるあの重厚さである。
逆にいえば、記憶の忘却から「軽さ」がもたらされるのだ。
寺山修司が自らの過去を語る際に何度も改変を施したのは、
過去の重さとそこから導かれてしまう今の自分から逃避するためであった。
金田朋子は過去の記憶を自然に喪失することで寺山修司を上回るラディカルさを手に入れている。


http://ameblo.jp/kanetomojigoku/
従って金田朋子のブログが開設されたとき戸惑いを隠せなかった。
ウェブログweblog)のlogは「記録」という意味である。
つまり金田朋子がブログを始めてしまうと、自らの過去が蓄積されてしまう。
これは忌々しき事態なのではなかろうか。
しかし、杞憂であるとすぐに気がついた。
金朋先生はきっと自分がブログで書いた内容を書いた先から忘れているのではないか。
金田朋子は忘れるためにブログを書く。
そして金田朋子は喪失という名の翼を広げた天使となる。

六月の夕べの夜と昼とのあわいに、おのおのの瞳を以て、「死ね!」とばかりに
冷ややかにわれわれを教唆する美少年たちは、すでに彼ら自身が死とは先約ずみなのだ。
「これ以上、大きくなれないような子」「その成人振りが到底考えられない童子」は、
既に完結している。


(『稲垣足穂全集(4)少年愛の美学筑摩書房,2001,p167)



この世への執着も、金田朋子への想いも明日には全部忘れてしまいたい。


蛆虫の涙を飲み干して、まばたきする度に起こる惨劇を忘れてしまいたい。


自殺した雨、長い黒髪のような雨、無数の流産、心の漂流物、優しい廃墟
アーモンドの入ったチョコレート、ゼンマイじかけのネズミ
シダの葉先が銀色に光って、妖精がビロードうさぎにキスしたとき
砂糖漬けのオレンジピールラム酒漬けの干しブドウが渾然一体とカクテルのように混ざる。
少し苦めのカカオパウダー、熱々のチョコレートソースをかけて召し上がれ。


太陽の明るさには慣れそうにない


――――――――――――――本日のBGM――――――――――――――――

乾いた風に吹かれ 独りきり歩いてる
忘却の空へたどり着けるまで


灰色で綺麗だった 想いを探してる
足跡消せないから いらだち重ねたけど
空白で素敵だった 想いを探してる


SADS「忘却の空」)

忘却の空

忘却の空

吉田豪 x 磯部涼トークショー「アイドルと音楽 by Quick Japan」


とき:2008-10-16
ばしょ:タワーレコード新宿店7F
サイト:
・タワエコブログ
http://blog.tower-eco.jp/blog/2008/10/by-quick-japan-.html
・クイック・ジャパン編集部ブログ
http://www.ohtabooks.com/quickjapan/blog/2008/10/17114239.shtml


クイック・ジャパン編集部ブログに
『イベントの詳しいレポは次号(81号)のQuick Japanで!!』
と記されているので詳細は省き、個人の記憶に基づいて書きたいと思う。


最初に断っておくと「アイドルと音楽」というタイトルは急遽付けられたものらしく
実際話された内容は二人のインタビュー方法や「雑誌メディア」についての話がメインであった。



不良文化とコトバは親和性が高い


磯部涼氏の発言。
磯部涼氏はヤンキーがわざと「言葉の訛り」を強調するような例を挙げつつ
日本語ラップの独特の言葉づかいとの関連性を語る。


ヤンキーとコトバ、あるいは音楽との繋がりといえば
速水健朗ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』を外すわけにはいかないだろう。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

速水健朗氏は著書の中で「浜崎あゆみ」をヤンキー文化の象徴的な存在として捉えている。
浜崎あゆみ」の歌詞への思い入れについては以前の日記で仄めかしておいた。
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20080516/p1
私自身は日本語ラップやヒップホップ文化に疎いのだが、
今回のトークショーをきっかけに少しずつ触れてみたいと感じた。



不良文化だったころのアイドル


吉田豪氏はもともとアニメが好きなオタクだったらしいが不良文化に憧れて、
その中で不良文化だったころのアイドルにはまった、というような発言をした。

これは掟ポルシェ氏も語っているが(因みに今回のトークショー掟ポルシェ氏も参加していた)
体育会系、ヤンキー文化としてのアイドルといった側面は80年代頃には明確に存在していたらしい。
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20080429/p1

吉「僕は私立校でしたけど、アイドルの曲は、ヤンキーの人が聴くものでしたからね」
(中略)
吉「親衛隊的なノリですよね。あと僕はアニオタでもあったんですけど、
途中でアニメはダメだと思って(笑)、中2くらいからヤンキー漫画を読んだり、
音楽もロカビリーを聴いたり・・・・・・。そんなヤンキーのたしなみで、アイドルも好きになったっていう」


(吉田豪,宇多丸「なぜ歌うアイドルは素晴らしいのか!?」
『UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号』 )

UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号 [雑誌]

UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号 [雑誌]

初期のヴィジュアル系が好き


吉田豪氏の発言。不良文化・ヤンキーという文脈でこの話が出た。
従って、吉田豪氏が言うところの「初期のヴィジュアル系」とは
バンドブームの頃にいた不良・ヤンキーと直結していたヴィジュアル系という意味あいであろう。
著書である『バンドライフ――バンドマン20人の音楽人生劇場独白インタビュー集』
での人選を見ればそれが具体的にわかる。
例えば、BAKIGASTUNK)ダイナマイト・トミー(COLOR)などがそうだ。
完全なヤンキーとは違うかもしれないが
ケラ(有頂天)や大槻ケンヂ筋肉少女帯)もインタビューしている。

BAND LIFE―バンドマン20人の音楽人生劇場独白インタビュー集

BAND LIFE―バンドマン20人の音楽人生劇場独白インタビュー集



アイドル・ヴィジュアル系:ヤンキー・オタクのハザマ?????


アイドルもヴィジュアル系も雑多なものを詰め込んだ総称なので
全てがそうだとは言い切れないが
多分今のアイドル文化やヴィジュアル系アーティストは
以前に比べたら不良性・ヤンキー性は薄れているのかもしれない。


ヴィジュアル系を例にだすのであれば
コメカ著「J-POPの切断線――ゼロ年代ミュージック・マップ2008」
(第二次惑星開発委員会『PLANETS』vol.5所収)
という記事では、ヴィジュアル系を大きく三つにカテゴライズしている。


1「ホスト化するV系」
2「農村の記憶を残すビジュアル系」
3「自意識を持つV系」


興味深いのは
「ホスト化するV系」は「ゼロ年代のヤンキーの作法」「ヲタのBGM」といったカテゴリーの近くに存在していること。
そして「農村の記憶を残すビジュアル系」の近くには「浜崎あゆみ」がマッピングされているということだ。
これはヴィジュアル系がヤンキー文化と親和性があり、
尚且つ「ヲタのBGM」に接近したバンドもいて、現在のヴィジュアル系の「オタク性」が示唆されている。


――――――――――――――――――――――――――――


私は節操がないのでどんなバンドも好きです。
次号の『クイック・ジャパン』はトークショーの内容だけではなく
その後行なわれたDJタイムで流れた曲についても書かれていたら嬉しいです。

INDIVIDUAL FASHION EXPO IV

Imamu2008-09-23



とき:2008-09-23
ばしょ:JCB HALL
サイト:http://maruione.jp/images/idexpo/jp.html


・主な流れ
fashion show→分島花音live→fashion show→jealkb live→fashion show→Plastic Tree live→fashion show


・雑記
ちょうど9月17日放送の「NHK 東京カワイイ★TVゴスロリ進化系を見ていたので
タイミングよくゴス・ロリ・パンク系のファッションショーを見れてよかった。
http://www.nhk.or.jp/kawaii/locaspot/spot_080917.html

fashion show

・KAMIJO(Versailles)が出てきた。全体的に黒っぽかった。
最後に目立とうとして、マントを無駄に翻していたのがもうたまらなく好きでした。
http://artist-society.syncl.jp/?p=diary&di=50201


メガマソのGou氏が出てきた。
メガマソの残り2名も登場するんじゃないかとドキドキしてたがドキドキ損だった。(出てこなかった)
http://megamasso-gou.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-88b2.html
http://megamasso-gou.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-3675.html
http://megamasso-gou.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-0425.html


・アニメ「黒執事」とファッションショーのコラボ
ドレミ團のマコト氏が執事として登場。
http://ameblo.jp/doremidan-makoto/entry-10142707590.html

黒執事 1 (1) (Gファンタジーコミックス)

黒執事 1 (1) (Gファンタジーコミックス)

そういえば、アニメ「黒執事」の主題歌にシド(SID)が使われるみたいだ。
シドは楽器隊がもうちょっとがんばってくれたら好きなのになぁ。

分島花音live「still doll」

still doll

still doll

ロリィタ系の豪華な白いドレス。
チェロを弾きながら歌うのかと思っていたら
楽曲自体がチェロパートと歌パートをきちんと分けていることにライブを見ながら気付く。
ひさびさに生でMana様サウンドに酔いしれた。
そしてMana様を見習って(?)分島花音さんも無言であった。

jealkb live

雰囲気がガラリと変わりイベント全体にメリハリがついてよかったのではないかと感じる。
どうも普通に「ロンブー淳だぁ」とか「ハローバイバイの人だぁ」と考えちゃって・・・
しかしコールされたりヘドバンがあったりして普通のバンドだ。
jealkbはパロディ的な意識でやっているのだと思っていたが、本気でバンドやってるようである。

Plastic Tree live

My Bloody Valentineの名曲「Only Shallow」にのって登場。
ベース音。これはっっっっ「イロゴト」キタ━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ !この曲すごい好き。
竜太朗のトークかわいい。
「リプレイ」「メランコリック」「ヘイト・レッド、ディップ・イット」と続き


最後に何と、大槻ケンヂ筋肉少女帯)が登場してプラと一緒に熱唱。
「吐き気がするほどロマンチック」な曲を歌いました。

劇団☆A・P・B-Tokyo 実験室公演Vol,3『寺山修司コレクション』

とき:2008-09-06
ばしょ:阿佐ヶ谷Loft A
公式サイト:http://www.h3.dion.ne.jp/~apbtokyo/

ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかけて
完全な死体になるのである
そのときには
できるだけ新しい靴下をはいていることにしよう
零を発見した
古代インドのことでも思いうかべて


「完全な」ものなど存在しないのさ


(『寺山修司全詩歌句』口絵より,1986)


劇団☆A・P・B-Tokyoの公演は初めて観させて頂いたが、
終始観客を挑発していてとても刺激的であった。


「開演ブザー→開幕」の流れを3度も繰り返して
「さあ、4度目の正直だ」と気合を入れてみたら、観客席から演劇なるものが開始される。


そして・・・・・・


やはり止めよう。
この公演のあらすじを語るのはとても困難を伴う。
なぜならこの日行なわれたことは演劇についての演劇
つまりメタ演劇的であったからである。


そしてこれは、観客とは何かを問う演劇でもあった。
私を含めこの日集まった観客が「メタ観客」とでも形容される存在にならざるを得ないので
あらすじを追うという行為自体が意味を成さないのだ。
寺山修司が言うところの半世界
(私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ)
を体現させられた気分である。
この日観客として来た私は
包帯を顔に巻いたり、オモチャのヘビを顔面に当てられたり、霧吹きで水をかけられたりした。
「観客席は安全ではない」という言葉を身を持って体験することになったわけである。

ぼくはアイデンティティを捜すという形の人間観、
あるいは、そういう形で成立するドラマツルギーを信じていない。
それは結局物語志向であって、近代の人間観を越えていないと思うんです。
それに比べれば、機械にはアイデンティティがない、
というところに興味がある。


寺山修司『臓器交換序説』1992)


もう一つ、この公演についての語りを阻む理由がある。
それは劇中に出てきた「プロの観客」なる存在だ。
「プロの観客」は、日々つまらない喜劇で笑い気持ちのよい拍手をして僅かばかりの収入を得ているらしい。
そしてついに「プロの観客」は「上演されていない劇」の批評をし始めてしまうのである。
「上演されていない劇」の批評が成立するということは
「上演されていない劇」の観客であることも成立し得るのではないか。
では「上演されていない劇」の役者はどこに存在しているのだろうか。


私が今書いている劇は本当に存在したのであろうか。

寺山さんは自身の過去を次々と作り変えて物語化してきた。
どれが本当でどれがウソだかではない。どれも本当でどれもがウソなのだ


(萩原朔美「フィクションとしての寺山修司寺山修司悲しき口笛』ハルキ文庫,2000)

寺山はよく
「ホントよりもウソのほうが人間的真実なのだ」
と口にした。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは存在しえないからだ。
私はときどきそういう寺山の生き方を批判した。
「私は泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒れるような、そんなふうに自然に生きたい」
だが寺山は、そんなとき必ず反論した。
「人間だからこそ、泣きたいときに笑い顔をつくって、
怒りたいときにじっと我慢して歯を食いしばって押し隠すこともできるんじゃない」
それが寺山の言い分だった。


(田中未知『寺山修司と生きて』新書館,2007)

子供のころから「家なき子」でしたから、現実は「世を忍ぶ仮の姿」で、
もう一つの生きられる世界、劇場的な世界がある筈と思っていたのでしょう。


(唐十郎高橋睦郎・竹内健・寺山修司「座談会 本質論的前衛演劇論」『三田文学』1968,p10)


「フィクションに現実が侵入する」のではない。
「現実にフィクションが侵入する」のである。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


とはいえ、お金を払って「観客」として来てしまったので感想を書くわけである。
「ペンキ屋の役を配役されたペンキ屋」として登場した点滅さんの舞踏や
マメ山田さんのお姿を拝見できたのが、本当に嬉しかった。


・点滅 公式サイトhttp://www.geocities.jp/temmetsu/
マメ山田 公式サイトhttp://hccweb5.bai.ne.jp/~hdl03601/


また、最後に寺山の言葉をセリフとして叫んでいくシーンが良かった。
この日のために暇を見つけては寺山の詩を流し読んでいたのが役立った。
「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」



ラジオドラマ『箱』

劇中マメ山田さんが「世界一小さい劇場」=ダンボール箱に入り、演劇を見るというシーンがあり
寺山修司のラジオドラマ「箱」を思い出した。
ラジオドラマ「箱」では現実逃避のために「箱」の中に入って生活する人々が急増するという筋であったが
マメ山田さんが入ったダンボール箱は「演劇を見ている観客」のパロディとして箱が使用されていた。


また、箱は観客の「匿名性」や「自分を守る殻」の象徴でもあるだろう。
アービンジャー インスティチュート『自分の小さな「箱」から脱出する方法』においては
「他者を物として見ている状態」が「箱に入った状態」だとされている。
「観客」の特権性とはまさに舞台上の役者を「物」として見られることにある、
とするのはいささか皮肉が過ぎるであろうか。


今回の劇に参加して「自己啓発セミナー的」もしくは「TV版エヴァンゲリオンの最終回的」であると感じた。
それは観客の「箱」を壊すようにこの劇が構成されているからである。

寺山修司ラジオ・ドラマCD「犬神歩き」「箱」

寺山修司ラジオ・ドラマCD「犬神歩き」「箱」

自分の小さな「箱」から脱出する方法

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  • 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
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ラジオドラマ『大礼服』「誰も死のうとしなくなっちゃいましたよ」

さて、昨日の劇とは全く関係ない話をしよう。
なぜなら、昨日の劇は存在していないのだから、関係ない話をしても問題ないからだ。


ラジオドラマ『大礼服』のあらすじは以下のとおりだ。


現実にはいない大礼服の男。その男により社会秩序に異変がもたらされる。
町の病人は治ろうとせずに死のうとばかりする。
幸福な家庭の幸福なパパが家出してしまう。
子供たちは地理の時間に地球儀に出ていない島のことばかり話し出し
みんな夢ばかり見て、朝になっても起きようとしない始末。


秩序を守るために刑事は立ち上がる。

「大礼服の男に、人間生活のすばらしさを嫌というほど思い知らせて、
あの男がもう何者にも近寄れないようにしてしまうのだ。」


刑事の作戦によって見事、大礼服の男は立ち去る。
その証拠にある人はこう語る。

「誰も死のうとしなくなっちゃいましたよ」

「誰も死のうとしなくなる」ことは喜ばしいことのはずである。
しかし、このドラマを通して聴いた者はこの言葉にそれほど肯定的な意味を見出すことは出来ないだろう。
それは続く言葉とセットになっているからだ。

「誰も夢をみなくなりました」


そう、このドラマでは「誰も死のうとしない」=「誰も夢をみない」という等式になっているのだ。
生きることは夢を見ることなのか。死ぬことは夢を見ることなのか。いったいどちらなのだ。

寺山修司ラジオ・ドラマCD「鳥籠になった男」「大礼服」

寺山修司ラジオ・ドラマCD「鳥籠になった男」「大礼服」

私は、一生かくれんぼの鬼である、
という幻想から、何歳になったらまぬがれることが出来るのであろうか?


(寺山修司『誰か故郷を想はざる』角川文庫,2005)

NHK「MUSIC JAPAN〜ネオ・ビジュアル系 真夏の宴2008〜」見た

Imamu2008-08-31

(2008-08-28 NHKで放送)
やっとみれた。画像は放送とは関係なくメガマソ涼平タン。カワユスギル


――ライブ――
・ナイトメア「Lost in Blue」
アリス九號.(アリスナイン)「RAINBOWS」


メアは全員スーツ★アリスナインはカジュアルな格好★
アリスナインの将はDAIGOみたいな手袋してる(>_<)


――――――――大槻ケンヂトークセッション(質問コーナー)――――――――


大槻ケンヂ
「並びだけ見てると、ライダー怪人が並んでるみたい」
「事前にアンケート見てみたけど、あんまり面白いのがない」
「みんな、自分にしか興味ないんだなぁって」


●将(アリス九號.)→柩(ナイトメア)
「カラーコンタクトって痛くないんですか?」

柩「痛くない」
逹瑯(ムック)(柩の唇のピアスを見て)「それキスとか出来るの?」
柩「何なんだよw」


ASAGI(D)→オーケン
「目から頬にかけてのメイクはどういう発想から?」
大槻ケンヂエイトマンっていうマンガやデビルマンとか・・・」
大槻ケンヂASAGIの衣装を見て)「ルネッサーンスって言いたくなる」


●みく(アンティック-珈琲店-)→有村竜太郎(Plastic Tree)
「美白のコツは?」
竜太郎「日に当たらない」
逹瑯(ムック)「夏は焼かないようにする」


大槻ケンヂ(mayaが飴を舐めているのを見て)「飴がトレードマークなの?」
maya(LM.C)「始めて出させてもらうから、わかりやすくていいかなって・・・」
大槻ケンヂ赤塚不二夫のおでん持ってる人みたい」


――ライブ――
・LM.C「88」
Plastic Tree「リプレイ」
アンティック-珈琲店-「SUMMER DIVE〜甘トロPEACH☆BEACH〜」


LM.C後ろにスリップノットみたいな人が(;´д`)
プラダントツで好き★
アンカフェ若いo(*^▽^*)o


――――――――大槻ケンヂトークセッション2(海外でのライブ)――――――――


逹瑯(ムック)「日本の若い子よりも海外の若い子の方が日本のヴィジュアルシーンに詳しい」
大槻ケンヂ「インド狙おう」


竜太郎(Plastic Tree)「(パリのライブで)目の前でブチューって」
逹瑯(ムック)「(海外は)カップル多い」


大槻ケンヂ「外国の人もメイクやコスプレしてきたりするんでしょ」
戒(the GazettE)「する子もいます」


――ライブ――
・ムック「アゲハ」
・D「闇の国のアリス」
・the GazettE「紅蓮」


ムックきたぁぁぁ☆☆
ミヤがイカツクなっててビックリしましたよぉっっっ
Dは初期の頃から軸がぶれてないですっ
ASAGIの目の逸らし方が良かった
ガゼがラスト(゜_゜♪
Voのルキのパーマはダイジョーブか


――関連する以前の日記――
NHK「MUSIC JAPAN〜ネオ・ビジュアル系 真夏の宴2007〜」見た感想とか - 死に忘れましたわ

牧野由依フリーライブ@文化放送サテライトプラスLIVE

・「ふじろっく」は留守番します日記
・ライトでポップな新居昭乃(だと勝手に思っている)牧野由依さんのライブ参加日記


とき:2008-07-25
参考(公式ブログより)http://yuimakino.fc.yahoo.co.jp/index.php?itemid=163

天球の音楽

天球の音楽

マキノユイ。(初回限定盤)(DVD付)

マキノユイ。(初回限定盤)(DVD付)


――setlist――
1.ウンディーネ
2.三月物語
3.スケッチブックを持ったまま
4.もどかしい世界の上で
5.アムリタ
6.横顔
―――――――


・浴衣は夏の暗闇に映えるものだと改めて気がつく
・自分が考えていた以上に、自分は牧野由依さんの楽曲が好きだと気がつく
・高音部分で少し苦しそうであったがそれほど気にならなかった
・「三月物語」で手拍子をする流れになっていたが、明らかにテンポずれていませんか?
・「もどかしい世界の上で」はピアノでのアレンジが難しそうだった


・事前のファン投票では「アムリタ」が一位だったらしい
確かに納得の結果ではあるが自分は「スケッチブックを持ったまま」の方が好き


・「ウンディーネ」も好きだが、実はカップリング曲の「シンフォニー」がお気に入りです
アニメ『ARIA The ANIMATION』で「シンフォニー」が挿入歌として始めて流れたとき、泣いた


・しかし牧野由依さんの紹介記事でよく見る
『幼少時、岩井俊二に見出され「LOVE LETTER」「リリイ・シュシュのすべて」サントラ盤で』云々は
根暗モテナイ男子のハートに突き刺さり過ぎる。危険物取扱の免許が必要なくらいに。


・続く『2005年春に菅野よう子の目にとまり』という下りもドラマの脚本のようで恐ろしい。
ライブ終わり帰宅してアニメ『マクロスF』を見たが
菅野よう子のプロデュースっぷりは秋元康を越えているのではないかと思う。

ライムスター宇多丸『マブ論 CLASSICS』出版記念トーク&サイン会 参加メモ+++


とき:2008-07-10
ばしょ:タワーレコード渋谷店 B1F STAGE ONE
ゲスト:杉作J太郎
サイト:http://playlog.jp/rhymester/blog/2008-06-17


ライムスター宇多丸さんと杉作J太郎トークイベントに参加。
やはり杉作J太郎さんが面白すぎ。
自分のイベント整理券番号が比較的最初の方だったので、
50人ぐらいしか来ないのかと思ったら、軽く100人越えててビックリ。

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008


――――――――――以下メモ書き――――――――――――――


・J太郎「これソロアルバムでしょ」
・J太郎「これは良いキ○ガイ」
・J太郎「良い神経質」
・J太郎「(本の内容は)だいたい思い込みでしょ」「だけど納得いく思い込み」


宇多丸
「気取って評論しているつもりが、何時の間にか入れ込んじゃうのがアイドルソングの良いところ」


宇多丸
(取り上げるアイドルソングについて)
「マイナーアイドルは貶せない」(有名じゃないのにわざわざ取り上げて貶したりしたら・・・)
(結果的に)
「叩いても影響がないレベルの人 or 知られてないけど良いと思う人」を書く傾向にあった


宇多丸
「もうPerfumeで客観的なこと書けない!!!!」
「だからもう俺がPerfumeについて書いてること気にしなくていいよ」


宇多丸
「(アイドル)本人に会いたくない」
「アイドル本人と会うと『頑張れ』って気持ちしかでてこなくなる」


宇多丸
「『評論』と『アイドルが好き』の食い合わせの悪さといったら・・・」



本日の名言
『BUBUKAだから』


――――――――――以上メモ書き,以下駄文――――――――――――――



前列の方で椅子に座りトークを聞けたが
サイン会の順番が後列から開始されたため、1時間ぐらい待ち惚け。
その間に『マブ論』をパラパラ読む。


前書き部分に宇多丸さんの個人的な評価傾向が書かれている。

●ディスコ、ハウス(というかバスドラ四つ打ちもの全般)、PWLサウンド、ファンクなど、
どちらかと言うとオーセンティックなダンス・ミュージックが基調となったものに、
わかりやすく甘い。
(中略)
●ロック調、フォーク調、バラードなどには比較的興味薄め。


(『マブ論』p11)


これを読んで何か腑に落ちた。自分と全く逆だ。
私は音楽的センスが皆無なために、モーニング娘。Perfumeの楽曲の良さが余り解らないのだが
(ここで恥ずかしい過去を語ると、中学生の時はモーニング娘。の曲を生理的に嫌悪していた)
(Perfumeはライブに足を運んだにも関わらず、ロック調のアレンジのハレパンの方が好きだった
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070122/p1)
自分はアイドルソングを聞く素養が足りないのかもしれない。反省した。



サインの順番がくるまで『マブ論』をぼぅぅっと読んでる


だから、宇多丸さんの著書を読んで引っかかるのは
モーニング娘。Perfumeについて書いている箇所とは関係がない部分だ。

私の考えるところ、そもそもアイドルというのは、
アイドル的なものをあえて「演じる」振る舞い(『ぶりっ子』!)そのものだったのではないかと。
かつては歌も踊りもお芝居もその意味でこそ同一線上に置かれていたがゆえに、
それぞれの分野において技量が「本業レベル」であることは特に求められていなかったわけです。


しかし、80年代後半以降の「"ぶっちゃける"時代」の到来(とんねるず秋元康の台頭から『2ちゃん』まで)に、
そうした「あえて」の虚構性は耐えられなくなってくる。


何かの「フリ」をする(ましてや誰かにやらされて!)なんて欺瞞的だし古臭くて恥ずかしい、
(それこそ『アーティスト』のように内発的な)
「自然体」をそのまま出すのが偉いしカッコいいんだ、的な風潮が主流になってゆくなかで、
まさにその「フリ」こそが本質的であるアイドル文化は、
いわゆる「突っ込みどころ満載」な対象として貶められがちになっていったと。


(「"演じる"アイドルたち――「劇中キャラ」ブームを考える」『マブ論』p259)

あーちすと(笑)/あいどる(笑)


『「アーティスト」=自然体/「アイドル」=フリ』という認識は
かつての『手作り(フォーク以降のシンガーソングライターブーム)/非手作り(歌謡曲)』
と相似形だと捉えられるかもしれない。
つまり、80年代後半以降の「"ぶっちゃける"時代」の到来以前の1970年代には
『「自作自演のアーティスト」/「分業システムの歌謡曲」』という分類と
前者を高級とし後者を低級とするような価値観は出来上がっていたのではなかろうか。
そういう前提があるからこそ、
近田春夫大瀧詠一が歌謡曲を分析するような仕事が「高踏的な趣味」として流通するのである。



椎名林檎の「自作自演」は「アーティスト/アイドル」の対立を突き破る


しかし『「アーティスト」=自然体/「アイドル」=フリ』は恣意的な対立でしかない。
その対立のウソを強烈に認識させる存在としては椎名林檎を挙げるのが適当であろう。
彼女はデビュー当初自らを「自作自演屋」と称していた。
普通は「自作自演」は「自分で作詞作曲をしているアーティスト」といった意味で使用されるが
椎名林檎が使用する「自作自演」の意味がこの水準にあるわけではないというのは一目瞭然である。
彼女は楽曲ごとにセーラー服を着たり(幸福論)、ナース服を着たり(本能)と過度に演出的であった。
「虐待グリコゲン」「天才プレパラート」「発育ステータス」といったバンド名(絶頂集)は
過剰な印象とは裏腹にひどく表層的である。


こういった演出をみると椎名林檎における「自作自演」とは
『自分で作詞作曲してるけど、それを歌う表現者椎名林檎」は<私>が演じている別物だ』
という意味合いだとひとまず考えることができそうだ。


たとえ自分で詩を書いたり曲をつくり、それを自分で歌っていても
それがそのまま「自然体の私」を表現していると短絡的に捉えるのは間違いなのである。
逆にアイドルという「フリ」をそれが「フリである」という理由だけで低級だと考えるのも
何か違うという気がしてならない。


このへんの感覚を宇多丸さんは以下のように語る。

(宇)
作品ってのは、作りこんだ完全なウソの世界なわけでしょ?
でも、(アイドルソングは:引用者注)そこに生身を置く感覚。虚の中に実を見るみたいな。
これは他の音楽にはなかなか無い部分ですね」
(吉)
「基本が虚像ってのがおっきいですよね」
(宇)
最初に"虚"って言っちゃってるからね。
他の音楽は"虚"のモノを、これは"ホンモノ"ですって言うじゃないですか


(吉田豪,宇多丸「なぜ歌うアイドルは素晴らしいのか!?」
『UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号』 )

UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号 [雑誌]

UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号 [雑誌]


したり顔で「これはホンモノです」と言われるものに根本的な懐疑の目を向ける必要がある。



「キャラソン」とアイドル文化


宇多丸さんは『いまや「歌をうたうアイドル」は、
例えば「劇中キャラ設定」といった一種の言い訳を経由することでのみ、
辛うじて世間的に「開かれた」存在として成立し得る』(『マブ論』p259)と発言する。


ここで、キャラソンについて考えたい。
キャラソンとは、アニメのキャラクターが歌っているという設定のCDのことを指す言葉である。
宇多丸さんが唱えるアイドルの「劇中キャラ設定」は
まさにこのキャラソンの在り方に近いものだと言える。

涼宮ハルヒの憂鬱』の曲とかが、そのへんのヘタなアイドルソングより機能してるのは、
キャラの物語があって、そのキャラが歌ってるからキュンとするという構図ですよね。
久住と月島きらりも、まさにそうなわけで。
だから、女優系のアイドルがCD出す時は、役柄が歌ってる設定にするのもアリですよね。


(吉田豪,宇多丸「なぜ歌うアイドルは素晴らしいのか!?」
『UP to boy (アップ トゥ ボーイ) 2008年 08月号』 )


例えば、現在放送中のアニメ「マクロスF」ではヒロインの一人ランカ・リー
1980年代のアイドル風の曲を歌い、
しかもそれが(アニメ内の)多くの人に受容されていくといった物語展開を見せている。
「歌をうたうアイドル」をアニメというフィルターを通して成立させようとする良い例である。

星間飛行

星間飛行

(どうやら、中島愛さんは「80年代のアイドルのレコード」集めが趣味であるよう)

アイドル的なパフォーマンスも、“ランカ・リー”というフィルターを通すことで、
受け手にもより届きやすく、受け入れやすくなるでしょう


(ランカ・リーと80年代アイドル - 狐汁)
http://nakazato.blog.shinobi.jp/Entry/100/


これはモーニング娘。が当初「ASAYAN」という
テレビ番組内の物語を背負って登場したことと類似的に考えられるかもしれない。



歌声の向こうに「身体」を


VOCALOID 2」キャラクター・ボーカル・シリーズ初音ミク」を巡る議論は
「キャラ」と「歌声」の問題を考える上でとても重要なものを含んでいると感じる。

われわれは歌声の背後に、歌う現実の身体を想像してしまう慣習から逃れられない。
VOCALOIDのようなテクノロジーはやがてその慣習を柔らかく崩していくだろう
(われわれはもうすでにドラム・ビートの背後に人間を想像しない)が、
いまだわれわれはそこから自由ではない。
(中略)
バルトならぬわれわれは、身体なき声の背後にやはり「身体」の形象を探し求め、
虚構キャラクターをその位置に当てはめる。


(増田聡 "「作曲の時代」と初音ミク"『InterCommunication』No.64 2008年spring,NTT出版,p83)


例えばPerfumeがどんなに歌声を機械的にいじられていても
Perfumeはあの3人の「存在」なしには成立しえないだろうということはすぐに予想できるが、
増田聡氏は初音ミクがキャラクター性を帯びている背景として
われわれはただの歌声の素材の後ろに
その歌声を出す「存在」を見出さずには入られないという心象を指摘する。


身体なき声の背後を「虚構キャラクター」が埋められるのだとしたら
現実の身体を持ったアイドルは必要なくなるのであろうか。



「アイドル」というメディア経験は私たちの古い脳をだます程度には人間に近い


なぜ、アイドルは現実の身体を持っているのか。それが不思議でしょうがない。

映像の中の動き、とりわけ視聴者に向かってくるような動きは、
あたかも実際に存在する物体が向かってくるかのように、
脳内の生理的活性を刺激する。映像もまた、自然な経験なんだ。


(バイロン リーブス,クリフォード ナス,2001,翔泳社
『人はなぜコンピューターを人間として扱うか――「メディアの等式」の心理学』)

なぜこんなことが起こってしまうんだろう?
人間はまだ現代のテクノロジーに見合うほどに進化していないから、
というのがその答えだ。
(中略)
人形は、考えてみれば人間とはあからさまに異なっているのだけれど、
私たちの古い脳をだます程度には人間に近い。


(同上)

宇多丸「黒アイドル」/伊集院光「処女ドル批判」


「コラム界のアイドル左翼」ライムスター宇多丸さん――TBS RADIO ストリーム コラム要約 - 死に忘れましたわ
このコラムは宇多丸さんの話のポイントが上手くまとまっている。


ここで宇多丸さんが提唱する概念「黒アイドル」と対になっているのは
2008-6-23のTBSラジオ伊集院光 深夜の馬鹿力」において語られた
「処女ドル批判」のくだりであろう。


伊集院光は「処女ドル」という言葉はおかしいのではないかと疑問を持つ。
「いつも心に童貞を」でお馴染みの伊集院光的には
建前としては「アイドルは処女」であり、従って「処女ドル」はトートロジーではないか。
逆に「私はヤリまくってますが」というアイドルがあらわれた場合は
「それは特殊な例」で片付けられるので問題はない。


だけど「私は処女のアイドルです」と宣言する「処女ドル」なる概念の存在は
「それ以外のアイドルは処女ではない」と暗に語っているようなものであり、それはおかしいではないか。


この話を一通りした後、伊集院は「自分がおっさんになったのか」と呟く。
「アイドルは処女」という建前が常識としてあった時代はとうに終わり
「アイドルって言っても若くて可愛い女の子はそれなりにやってんだろ」が常識になってしまったのか。


写真週刊誌やネットなど、幻想を守りきれないメディアが台頭している現在
『「純潔かヤリマンか」という二つの分類しかないというのはもう時代遅れだ』として
これからは普通に男と付き合っていても問題がない「黒アイドル」概念を流通しようとする
宇多丸さんは、現状認識は伊集院と同じなのに、対処の方法が異なるようにみえる。



その他参考にしたもの


・「ライムスター宇多丸のマブ論CLASSICS」/宇多丸 - 空中キャンプ

アイドルソングを聴く」とはおそらく、そのアイドルに対する思い入れを、
歌詞や曲の世界に仮託しながら、自分の中でイメージを広げ、
想像の中でアイドルに近接していくような行為になるのだろうとおもう。


http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080707#p1

『マブ論』書評。


椎名林檎についてメモ - 居眠り姫、レミニッセンスをキカイにたたきこむ

椎名林檎もビジュアル系バンドも、
彼らが持つ意匠のルーツをアカデミックな側面から
学習していく事をその客層の大部分が拒むという共通性を持っている。
歴史性を持たない「意匠」に固執しそこに留まり続けるのが
このあたりの文化圏の人間が持つ特徴である。



http://d.hatena.ne.jp/comeca/20060702

この文章はずっと心に残っていた。
多分アイドルも「意匠」が過剰である点が似通っている。


・くびき - 女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ

ぼろぼろになって打ちひしがれてみじめなまま
汚泥にその肢体をたゆたわせる末路までが、アイドルヲタの生の一連でも、その存在を肯定する。


http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080709/p1

極端な話、モーニング娘。はさっぱり解らないが、
モーヲタと呼ばれる方々のブログの水準の高さには感動する。







――――――――――今日のBGM――――――――――――――
下川みくに「輪舞~revolution~」「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」

Review~下川みくに青春アニソンカバーアルバム~(CCCD)

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中川翔子「輪舞 -REVOLUTION」「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」
しょこたん☆かばー×2~アニソンに愛を込めて!!~(DVD付)

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両者とも同じアニソンをカバーしているので聞きくらべるのも面白いかも。