小向美奈子絶対肯定宣言――小向美奈子につられてストリップ鑑賞@浅草ロック座

Imamu2009-06-14



・ROCKZA.NET/浅草;http://www.rockza.net/asakusa/index.html

小向美奈子 Atmosphere [DVD]

小向美奈子 Atmosphere [DVD]

元タレントの小向美奈子(23)が
ストリップでデビューすることが16日、明らかになった。
小向は覚せい剤を吸引したとして
今年1月に、覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕され、
執行猶予付きの有罪判決を受けている。
(中略)
その転機を誓ってから約3カ月。
6月5日(金)から浅草ロック座(東京・台東区)でスタートする
「ロック座25周年特別興行第一弾」の
スペシャルゲストとして小向の出演が決定。
関係者は「本人が脱ぐ」と小向がストリッパーとして登場し、
実際にショーを行うことを明らかにした。


(裸で出直し!小向美奈子 ストリップデビュー(芸能)
スポニチ Sponichi Annex ニュース
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash2009051610.html

美や芸術は見る人を救うが、ストリップは因果物の方へ突き落してくれる


坂口安吾安吾巷談 ストリップ罵倒」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43179_21391.html

雨に溺れながら 問い掛ける あたしは道具なの?
心などなければ どれだけ むくわれるのだろう


(the GazettE「飼育れた春、変われぬ春」)

斑蠡~MADARA~

斑蠡~MADARA~

くだんないの
人間なんて 皮一枚剥げば 血と肉の塊なのに
くだらない


しかし彼女がごうまんにそう思うのは彼女じしんが
その皮一枚で美しいからである 生まれたときから


岡崎京子ヘルタースケルター祥伝社,2003,p258)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)



RUI「月のしずく」という曲が耳から離れない。
それは一部の五景、伊沢千夏さんが踊っているときに流れていた曲だから。
これからこの曲を聞く度にストリップのことを思い出してしまうだろう。

月のしずく

月のしずく


小向美奈子さんの出演は二部からだが、一部から通して見ることにした。
浅草ロック座に入りボディーチェックをうける。

当時の踊り子には、(1)うまい踊り手と(2)ヌード表現のうまいコ、
そして(3)ほほ笑みのうまいコ(中略)があって、
(1)と(2)のことを"ダンサー・ヌード"と呼び、(3)を"マヌカン・ヌード"と呼んだ


(みのわひろお『日本ストリップ50年史』三一書房,1999,p47)

日本ストリップ50年史

日本ストリップ50年史


確かに笑顔が印象的な踊り子さんと
妖艶な踊りが視野に焼き付く踊り子さんは違うタイプにみえた。

ストリップ界も、広い意味での風俗、に含められることが多いが、
(女性の)ボディで(男性の)ボディを直接楽しませる、
ということを主体としない、(女性の)一方的な、踊りやアクション(ベッドショーなど)
を見せることで楽しませる・・・というストリップの世界は、
五十年の歴史を持った"ステージの世界"である。


(みのわひろお『日本ストリップ50年史』p216-217)

ストリップ初体験であったのだが
流れとしては「数名でダンス→ソロでストリップ」の順で、
踊り子さんたちは皆カッコよかった。


ダンス部分は普通に演劇などを見ている感覚に近かった。
確かに“ステージの世界”であった。

ストリップの起源は、シカゴのバラエティー劇場で、
体を激しく揺すりながら歌っていたコーラスガールが、
偶然にも衣裳の肩ひもを引っかけてしまい、
乳房があらわになったという突発事件にあった。
その"事故"が、意外にも客の大喝采を浴びたために、
そのコーラスガールは毎夜わざと
肩ひもが切れるように細工し、乳房を見せて人気を得たという。


荒俣宏『万博とストリップ』集英社新書,2000,p43)

万博とストリップ ―知られざる二十世紀文化史 (集英社新書)

万博とストリップ ―知られざる二十世紀文化史 (集英社新書)

歌舞伎踊もストリップ・ショーも、共に戦後に将来された
平和時代の享楽的生活態勢の欲求に応じたものであった。
カジノ・フォーリーとても、関東大震災の刹那的生活態勢に呼応したものだった。
そしてこの三者とも、時代の安定すると共に衰退して、
他の演劇の中に溶和し昇華されてゆく、
という同じ過程をたどっていることは、演劇史的に見て興味深い。


河竹繁俊『日本演劇全史』岩波書店,1959)

日本演劇全史

日本演劇全史

加害と被害の二重性


以前見たSMショーと比較すると、
ソロのストリップは一人で加害者と被害者の両方を演じているように感じた。

ストリップ・ティーズにおいては、
たとえ演技する女がひとりで脱衣するとしても、
男性の観客を代表するこの非人称の存在に、
じつは衣服を剥奪されているという場合が多いのである。
というよりも、演技する女はひとりで犠牲者と犠牲執行者の役割を兼ねているのだ


澁澤龍彦「犠牲と変身――ストリップ・ティーズの哲学」
『少女コレクション序説』中央文庫,1985,p45)

少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)


加害者性を強く感じるときは、とても挑発的に見えるのだが
しかし、その加害性の刃は自らに向けられているのである。
この加害と被害の二重性こそがストリップの魅力なのであろうか。

人体は物である:スポーツ・ファッション・セックス・ライフハック

衣服をつけている女は、まさしく日常的世界の女であるが、
男の視線にさらされながら、音楽の伴奏に合わせて、
悩ましげな姿態を繰り返しつつ、
一枚一枚、少しずつ衣服を脱いでゆく女は、
すでに個人としての女ではなく、単なる肉体としての女に
移り変わろうとしているのである。


(中略)


このサディスティックな視線の欲望は、
少なくとも意識的にストリップを楽しもうとする、
男の観客ひとりひとりの心の奥に、
ほぼ確実に存在するものではないかと私には思われる。


澁澤龍彦「犠牲と変身――ストリップ・ティーズの哲学」
『少女コレクション序説』p48-49)

この発想の下には、二十世紀に生まれた最も特徴的な人体観が宿されている。


人体を物と見る発想である。


物であるから、魂や霊や人格とは切り離して、鑑賞することが可能となる。
物であるから、人格とは別に改良や研磨が可能となる。
また、その人物の人格とは関係なく、その肉体だけを愛することすら可能となった。
二十世紀にファッションやスポーツ、あるいはセックスが
大々的に意味転換したのも、このような下地があったせいである。


そのとき、キイワードとなったのが、「機械」であった。


機械は工業製品だが、肉体もまたその機能は
「生きた機械」として測定可能なのである、と。


なかでも注目されるのが、「若さ」への崇拝である。


二十世紀は老いを悪とし、若さを善とした、
人類史上でも目新しい世紀となった。
若さとは若い肉体を意味し、
機械的能力のまさった最新鋭機種のことである。
労働力としてもすぐれていた。


荒俣宏『万博とストリップ』p224)

グラマー娘は身体を清め見てくれを整えるのに没頭し,
スポーツマンは筋肉をつけるのに熱中し,
重役は性格改造に腐心する,
これはすべて"科学の力を借りて"やっているのである。


(マーシャルマクルーハン「強者のナルシシズム
『機械の花嫁―産業社会のフォークロア』p335-336)

機械の花嫁―産業社会のフォークロア

機械の花嫁―産業社会のフォークロア

グラマー娘はテクノロジー社会の命令にしたがって
生物体としての自分の体を一台の機械にかえているのである。
これは恋愛機械ともいうべきもので,
少なくとも当人は手順通りに全工程を終えれば,
恋は思いのままになると言いきかされているのである。


(マーシャルマクルーハン「コルセット美容曲線」
『機械の花嫁―産業社会のフォークロア』p360)

戦後の日本に誕生したストリップは、
はじまりのときから深々と「近代」を刻印されている。

たとえば、ストリップの世界で働く人々は、
しばしばその特異な身体技術をさして、
カネをもうけるための手段にすぎないといった、
じつにミもフタもない説明でかたづけてしまう。
こうした台詞ひとつとっても、
そこにはおそらく「近代」の変容がやどっているように感じられる。


橋本裕之「ストリップ研究ことはじめ」
『歌舞伎の狂言――言語表現の追究』八木書店,1992,p307)

歌舞伎の狂言―言語表現の追究

歌舞伎の狂言―言語表現の追究

それ以前にも先行形態らしきものはいくつか上演されていたようだが、
ストリップが近代的な興行形態として成立したのは、
戦後になってからであるとされている。
つまり、ストリップの歴史はわずか五十年たらずしかないのである。
にもかかわらず、ストリップというジャンルにまつわる身体のありかたは、
ときによってかなり異なっている。
ストリッパーと称される踊り子たちが
みずからの特異な身体技術についていだいている
意識をはじめとして、いわば思弁的なレベルにいたるまで、
そのちがいがたしかめられるのはおもしろい。
しかも、さらに興味深いことなのだが、
まったく同じ構図はきわめて即物的な地平にも影を落としているのである。


橋本裕之「ストリップ研究ことはじめ」
『歌舞伎の狂言――言語表現の追究』p312-313)

下着はセックス労働の制服


それまでのダンスの動きと齟齬を起こさないように音楽に合わせて
脱衣していく過程はやはりとても面白かった。
布を身体に絡ませながら踊る姿、
そして脱いだ後の衣服が踊り子さんの横に置かれている光景が
強く印象に残った。

一九一〇年代から普及しはじめたブラジャー、パンティー
ストッキング、ガードルといった新しい下着もまた、
ボディーパーツへの愛を助長する力となった。
つまり、新しいセクシーな下着は、
ボディー各部を隠すプライベートな覆いではなくなり、
セックスという労働のための制服として
デザインされだすのだ。


荒俣宏『万博とストリップ』p227-228)

毛皮、扇、手袋、羽根、網目の靴下、要するに、
洋服屋の装身具売り場がそっくりまるごと、
生身の体にたえず贅沢品というカテゴリーを組み込み続ける。
それらの品物は、魔法の舞台背景によって男をぐるりと取り囲む。
(中略)
そしてこんなにも儀式的な品物を取り外すことは、
もうあらためて裸になることからはほど遠い。

羽根、毛皮、手袋は、いったん外された後も
女をその魔法の力のなかに浸し続ける。
優しく包んでくれる豪華な脱け殻の記憶のようなものを、彼女にもたらすのだ。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p244)

現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)

現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)

昔のストリップの踊り子の衣装というのは、
今考えると馬鹿馬鹿しいくらいに大げさに隠してました。
今のストリップなんかはパンツにお金かけてる人なんかいないでしょう。
昔はぎっしりスパンコールをつけてキンキラキンにして、
下に一枚キョロパン履いて、その上に着飾ったものをつけて、
脱ぐぞ脱ぐぞ、といって脱いで、その下に隠しをもう一つつけた。
それをしていないと捕まった。
だから後ろを向いて、お尻を隠して上へ履いていたのを脱いで、
いかに履いていないように見せるかというテクニック。
お客が幼稚だったのかな、逆に。
見えるかな、見えるかな、ということで期待をつないでいた。
そういえると思う。


(話し手吉本力 聞き手橋本裕之「小屋掛けストリップの日々」
見世物小屋の文化誌』新宿書房,1999,p165)

見世物小屋の文化誌

見世物小屋の文化誌

プロの技術は裸を隠す


さて、二部に登場した小向美奈子さんである。
一部の踊り子さんの演技を見た後だとよりはっきり解ってしまうのだが
やはりまだ慣れていない感が否めない。
しかし小向美奈子さんの素人っぽさが
逆にプロのストリッパーのプロらしさを
ストリップ初体験の私に気づかせてくれた。

ダンスは裸体を隠す。
(中略)
こうしてストリップのプロのダンサーたちが、
驚くほどくつろいだ雰囲気に身を包んでいるのが見られるわけである。
そのくつろぎがたえず彼女たちを覆って、
観客から遠ざけ、氷のような無関心を彼女らにもたらす。
自らのテクニックの確実さのなかに逃げ込んで傲然としている。
熟練した現場の人間が見せる無関心さである。
彼女たちの技量が、彼女たちに服のようなものをまとわせるのである。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p245)

そして特に、「技術的」な困難
(パンティ、ドレス、ブラジャーがはずしにくいこと)が、
脱衣の身振りに思いがけない重要性を与え、
女に対して芸術というアリバイや物体という逃げ場を認めず、
彼女を弱さとおびえという状況のなかでしめつける。


ロラン・バルト「ストリップ」『現代社会の神話―1957』p246)


二部は小向さんをかなりフューチャーした演出がなされているようで
小向美奈子ファンにはよかったのかもしれない。
小向さんは二回ソロで踊る場面があったのだが、
一回目は最後まで脱ぐ前に終わり(脱ぐ前に他の女性が止めるという演出)
二回目で上半身が裸になる運びとなっていた。



入替え無しだったので、席を変えて二公演見てしまった。
二回目の席で私の隣に座った白髪頭の初老の方は
ダンス場面は基本下を向いて眠たそうであったが
踊り子さんが御開帳する場面では目を見開いて一生懸命凝視していた。

悪趣味異性観察、楽しくて堪らないよ。
理解不能寄生罵声、今日も張り切って生きますです。
幼稚プレイは飽きました。さらば人口幼少褄(ロリワイフ)
どうせならリアルでしょう?窓際レンズを覗く。


(the GazettE「貴女ノ為ノ此ノ命。」)

斑蠡~MADARA~

斑蠡~MADARA~




タレントがプライヴァシーを要求するとき、きまってあびせられる、
そんなことは承知の上で有名になりたかったはずだ、
という罵声は、この「代償の論理」にこそよっているのである。
代償を必要としたのは、タレントではなく、われわれ自身の方なのだ。
(中略)
われわれはいくつもの論理を駆使して「河原乞食」を差別の対象とし、
差別することでかれらをよろこんでたたえ、
安心して熱狂し得たのである。
(中略)
つまり、彼岸の芸術家でなく、此岸のストリッパーとして見られるのである。


中島梓『ベストセラーの構造』ちくま文庫,1992,p131-132)

ベストセラーの構造 (ちくま文庫)

ベストセラーの構造 (ちくま文庫)