ルーカス・スピラ写真展「a l hombre d une doute」に行った

Imamu2007-09-01



ゴキブリ,タコ,鮮血,浮き出る模様,配線と肉体,サイバー芸者,
フルーツと目玉と蟲のパフェ,サクリファイスのための肉と魂,


赤い空と黒い夜と白い肌,
虚ろな瞳,威圧する瞳,艶かしい瞳,


写真には現実の臭いが皆無である。臭いの無い生々しい痛み。
そこには感傷や憂鬱の味も無い。弱い傷はここには無い。
強い傷が、そう強い傷がただ在る。


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・肉体改造――ボディビル,スポーツトレーニングetc.
・人体改造――美容整形,臓器移植etc.
身体改造――Body Modification
(by ケロッピー前田氏の分類)
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ぐにょぐにょのクラゲに刺されて
お肉もお骨もぐにょぐにょぐにょ


ぐにょぐにょのグミを口に入れて
意識も景色もぐにょぐにょぐにょ


世界がみんな、ぐにょぐにょして
みんなみんな飛んでった


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現代の機械は、たいてい"他殺機"である。
しかも自動車も電車も、公害煙突も汚染水も"殺す"ためにつくられたものではなく、
他の目的でつくられたものであって、
それが代用品の他殺機として使われているにすぎない。


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

いつでも殺される。いつでも殺せる。
代用品の人間が代用品に殺される。
ウソの存在がウソの道具に殺される。

「人間いかに死ぬべきか」と思ったら、まずその尊厳を守り、方法化し、
殺されるという受け身の死を排さなければならない。
そして、死ぬ自由くらいは自分自身で創造したい、と思うのだ。
(同上)

ルーカス・スピラが見せる身体拘束、身体への傷は
服従の快楽か、それとも創造的な自己拘禁か

自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、
ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、
そして聖なる一回性であり、快楽である。
(同上)

襲ってくる現実を破壊しよう

あなたの価値は、
「葬儀費用+慰謝料
+逸失利益[(自殺前1年間の年収)×(1-生活費控除率)×(67歳-現在の年齢に対する中間控除率)]
+弁護士費用-過失相殺額」だ
これがこの貨幣経済を前提とした社会で計算可能なあなたの「価値」だ。
(中略)
生きていても自分でコントロールできることは、きっと驚くほど少ないだろう。
ならば、自殺するその瞬間くらい、
自分の命を自分でコントロールできる程度の知識は持っているべきだ。


雨宮処凛自殺のコスト太田出版,2002)

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ぐにょぐにょしてるから
ナイフで刺されても何も感じない
ぐにょぐにょしてても
言葉と視線は突き刺さる

影 存在を誇示した
僕 存在が希薄だぁ


ほら 壊れてしまう日まで罪の調べだけが
ただ 僕らにながれてくる
ながれてくる
ながれてくる

Plastic Treeエーテル」)


バラバラになって狭い部屋から抜け出る

全てをかきわけ逃げましょう
ためらい飛び出せないならあなたを
刻んで詰め込んで
カギをかけ
やさしく抱えて
汽車に乗せてあげる


Cocco「走る体」)


抜け出た先にはまた別のウソとキズ

例えこれが夢でも現実でも
実在しない君のための慰め
支配されない場所


君は頭を僕は指を無くした
補うように二人仲良く
吊るされていた


人格ラヂオ「崩壊した街 支配されない場所」)

自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。


寺山修司『青少年のための自殺学入門』河出文庫,1994)

関連する以前の日記

・"死に忘れましたわ - 人造乙女博覧会--ヴァニラ画廊--へ(ラブドール観賞)"
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070628/p1


・"死に忘れましたわ - 「バラバラ-人体-傷-美しい」三浦悦子『聖体礼儀』"
http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070319/p1